SSブログ

歴史の興亡は茶番劇? [歴史]

一昨日から、小冊子「尼子氏と戦国時代の鳥取」を基に、戦国時代の地方豪族と、その上に
君臨する守護や守護代の興亡を通じて、社会秩序の崩壊と再建について、考えてきた。
戦国時代を経て変化したのは、貴族社会(天皇・公家)の明らかな政治的地位の低下である。
それは、寺社にも通じる。祭忌や芸術、趣味を扱う専門家集団への解体である。
それに伴って、守護、守護代といった中央政府の出先機関と、地方豪族による三重・四重の
搾取構造ではなく、地方大名や地主による二重の搾取に変った。勿論、重税だったが。
貴族社会が没落した原因は、武士社会の貴族文化への憧れが薄れたことではなかろうか?
以前、山口の方に旅行した時に入手した小冊子「大内義隆の光と陰」を思い出して読んだ。
大内氏の遺産を継承した大内義隆(ヨシタカ)は、中国地方の大部分と九州北部に跨る室町幕府で
最大の守護大名だった。大内氏が、表面的には毛利氏にとって代わられたのは何故なのか?

大内義隆(1507-1551)は天文11年(1542)、尼子氏の本拠・月山富田城を攻めた。この時は
まだ小領主であった毛利元就は大内軍に従軍している。無能な大内軍は地理、ロジスティクス戦略
など、無い無い尽くしで城を攻めあぐね、味方から裏切りが出て惨めな敗北を喫した。
元就も九死に一生を得て帰郷する。その後、義隆は一度も戦争をしない平和・文化愛好者?
大内義隆は、室町幕府の上級武士の公家文化に対する強い憧憬の伝統を引き継いだ。
義隆が平和ボケしている間に、大内家は、武断派と文治派の対立が激化し、武断派の重臣・
陶隆房のクーデターになり、天文20年(1551)、義隆は、あえなく自刃したのである。
9年の歳月をトップリーダが無為に過ごせば、どんな立派な組織も崩れてしまうのだろう。
この間、毛利元就は粒粒辛苦して、吉川、小早川の両川に次三男を送り込んで自陣営とし、
家中においては、専横を極めていた井上元兼とその一族を粛清している。

こうして歴史を大雑把に見ると、農林水産、製造業等の一次産業は、一見、搾取が軽減され
社会改革が成されているように見えるが、果たしてそうなのだろうか?
一次産業は縮小し二次・三次産業へと移行する先進国程、食うに困らなくとも不平不満分子が
増大し、現代のギリシャの様に、国家規模の暴動に膨れ上がる。国を運営管理する官僚組織迄「収入の削減等トンでもはっぷん!もっと金よこせ!」と叫ぶのは商業への課税の仕組の問題
ではないか?商業では労働者の賃金が正当に評価されず、課税評価も曖昧で資本家だけが
ぼろ儲けという構造に、「全ての問題」があるような気がするが? 米国でも証券取引の
打壊しの動きもある。証券取引に累進課税しても、強欲な金持は取引を止めない? 
現代までの歴史の興亡は、命がけの戦いで大変だったが、次元の低い戦いではなかったか?
物質的に豊かになった今後こそ、先進国の興亡が、後の世に問われるだろう。如何なものか
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。