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散歩つれづれ'11.10_(6) [閑話]

今日の散歩開始時は、晴天で、毎度のことながらスロージョギングでは薄着でも汗が出た。
しかし次第に雲が広がり、空一面の曇天となり、ランニング一枚着込んで丁度よくなった。
さて連続TV小説カーネーションであるが、今日は糸子(尾野真千子)が一週間泊込みで洋裁を教えて
くれた根岸先生(財前直見)を見送る感動場面で10/21,24,27のブログ写真で紹介した場所が
またまた背景に採用されていた。そこでチョッと気になったのが、
物語の中と、実際との位置関係に矛盾があることだ。10/21放送分では糸子が
自宅からパッチ屋に向かう方向は、10/21の写真→10/27の写真の方向だったのに、今日は
見送る場所が、10/27の写真近くで根岸先生のTAXIは、10/21の写真の方向に走り去った。
ドラマに実際の風景を取入れる際にはこういう事は日常茶飯事?なのだろう。

閑話休題
先日出席した中学の同窓会をキッカケに、クリスチャンの知り合いが増えた。
その中の一人に教わったのが、「聖書をヘブライズムで読む」という考え方だった。
そして、その人曰く、「生命の光」という小冊子がどこにでもあると思う。
それを、一度読んでみたら!といわれた。

それを聞いて、そういえばそんな冊子が雨ざらしになっているのを何度も見たな、と思った。
いつもバス停にある冊子が、帰途見つかれば、ご縁があったという事で少し調べてみよう。
なければご縁がないということで、友人の勧誘は聞き流そう、と、某バス停に近づいた。
遠目には何も見当たらなくてホッとしたが、よく見ると地べたにビニール袋に入った一冊が、
落ちていた。冷たくあしらわれた冊子が哀れに思われ、拾い上げて汚れた袋はゴミ箱に入れ
冊子「生命の光 2011・10 No.707」を持ち帰って読んだ。少し興味を引かれた。

私は、宗教に関してはニュートラルである。既に高齢者の仲間に入っているから関心はある。
我々現代日本人の心のあり方は、大変、難しい問題を抱えているのである。最近、福田恒存著
「日本を思う」の日本近代化にまつわる諸問題、を読んでいる。以下はその引用。
◎ 日本近代の担い手は、利潤追求の商業勢力に過ぎず云々。
◎ 神と理想的人間像なくして、個人の確立も、その超克もありえぬ云々。
西洋の近代化は社会と個人との対立を解決しようとした革命の失敗作である。しかしその失敗
の要因は、合理主義、科学主義に依存したからで、わかりやすい。「社会と個人との対立」を
解決するのは、個人の内面からのアプローチしかないのではないか?現代の我々同年輩が、意外と
多くクリスチャンになっている要因は、その辺りにあるのではないかと推量する。如何なものか
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