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骨蔵器よ語れ! [歴史]

日本史上の謎の時代を解く鍵が、これから、次々と明らかになっていく?先日の鳥取散歩で得た資料から、一人の女性の骨蔵器について知った。女性は「伊福吉部(イホキベ)」「臣(オミ)」、「徳足比売(トコタリヒメ)」。略歴は地方豪族の娘で朝廷に仕えた「采女(ウネメ)」であった。推定生年は天智天皇3年(664)。鳥取市国府町から発掘された骨蔵器の銘文によると、和銅元年(708)に亡くなり、和銅3年(710)に火葬されて埋葬された。彼女は、白村江の戦(663)と同時代に生まれ、天智天皇の即位(668)、壬申の乱(672)、飛鳥浄御原→藤原京遷都などを経験している。DSC08994骨蔵器.JPG
朝廷に仕えたと推定される677年以降、天武、持統、文武の三代の天皇に仕えた事になる。
徳足比売の生涯は、今で云えば随分と短い44年間の人生だった。しかし骨蔵器(写真)の銘文と最近の研究で明らかになってきた彼女の歩んだ人生は、1300年の時空を超えて、何かを訴えている様に思えるのである。何故なら、日本史の中でも、蒙古来襲や、明治維新に匹敵する国難の時代と重なる彼女の人生は、今まで闇に葬り去られていた様々な真実が、明かされていくキッカケになるのではないか?と、期待できるからである。

徳足比売の時代は、異様に多く遷都が繰り返されている。667年、近江大津宮に遷都。 
672年、飛鳥浄御原に遷都。 694年、藤原京に遷都。そして、710年、平城京に遷都。
また日本史上の女帝は10代、8人だが、655年以降、770年までの第37代~第48代までの
12代の内、6代、5人が女帝であるという事実である。天皇家が、相当混乱していた?
従来のこの時代の歴史的事実は、多くは、古事記、日本書記の記述に負っているが、
これらの書物が、相当、政治的なものであり、大変、謎めいている。

因幡の豪族の娘・徳足比売が、銘文では都で卒した後、二年を経て郷土で火葬・埋葬されたというが、写真の様な立派な青銅器に丁重な銘文を入れて葬るという事が当時、普通だったのか?
ある資料によると、「火葬の風習は文献による限り、700年の僧・道昭が最初。火葬が普及するのは8世紀になってからで、持統天皇(702)、文武天皇(706)と伝えられる。」とある。DSC08993骨蔵器.JPG
わが家の近く・吉備地方には、昔、吉備真備(695 – 775)の出身豪族・下道(シモツケ)氏が住んでいたという。吉備真備の祖母・骨蔵器(写真、銅製)が、矢掛町から発掘された。この銘文によると、和銅元年(708)に火葬された事がわかる。骨蔵器の主は、吉備真備の父親と叔父の二人の姓名を書き、その母親と書かれて、本人の名前や、年齢は明らかではないが、徳足比売と同年に亡くなった事になる。当時の因幡や吉備の豪族は、中央の天皇家と肩を並べるような状況にあったのではないか? この時代の歴史の解明が益々、進む事を祈りたい。如何なものか


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