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「ゲゲゲの女房」20週 [物語]

今週の「ゲゲゲの女房」のポイントは、夫婦関係、親子関係、見えるものと見えないもの。
夫婦では、茂(向井理)と布美枝(松下奈緒)、同居している茂の両親の絹代(竹下景子)と修平
(風間杜夫)、そして、上京してきた布美枝の弟・貴司(星野源)の3組の夫婦関係にスポットが
当たる。茂の両親はカカア天下だが、修平は「暖簾に腕押し、糠に釘」と軽く受流すので、何とか
うまくいっているようだ。茂・布美枝と弟・貴司の夫婦は、旦那の仕事が忙しく、「妖怪いそがし」に
取り付かれ、家庭内のコミュニケーションに問題がある。“忙”とは“心が亡くなる”と書く。
心の無いコミュニケーションでは、人間関係をうまくやっていく事はできない。

親子関係は茂・布美枝と藍子(菊池和澄)・喜子の関係である。藍子は母親似で引込み思案。
学校で各家庭の連絡先を確認するために配られた資料の父親の職業欄が「漫画家」になって
いたために藍子は友人からとやかく言われて嫌な思いをする。喜子は父親似でゴーイングマイウェイ。
幼稚園の先生から呼び出されて団体行動ができないのではないか?と注意される。義父の脩平
から茂の幼い頃の話を聞かされて、「人とは少し違った小さい頃の体験が、現在の漫画家と
しての成功につながっているのではないか。」という話に、布美枝は一息つくのだった。

人間関係に問題があったとして、当事者だけで問題を解決しようとしても泥沼にはまっていく?
兄弟や父母、配偶者、或いは友人、知人との対話に、行き詰っている視点を転換してくれる様な
アイデアを見出すことができることもあるが、それはいつでも意図的に出来るものではない。

「妖怪いそがし」に取り付かれ、娘達のことが見えなくなっていた茂・布美枝夫婦は、弟や父の助けを得て、やっと藍子・喜子と向き合う機会を設けた。そこで最も大切な部分は、“見えるものと見えないもの”に関する親子の対話である。科学主義・合理主義で固められた民主主義や共産主義教育では、“見えないものを信じること”を否定し、場合によっては軽蔑さえする。その様な時代の風潮の中で、藍子は「父親がウソを書いている」と友達から非難されて悩んでいたのである。
山小屋の蝋燭の下で説明した茂の内容で藍子は果たして納得できたのか?私は以下の様に考えている。個人は全てのことを知る事も見る事もできないし、記憶さえ全て記憶できない有限な存在である。しかし人間を含む生物、社会、自然、そして宇宙は、無限の存在である。従って、個人が“見えるもの”だけしか信じないのは片手落ちだ。しかし“見えないもの”を信じる場合には、それを信じたら「群集心理」に陥るかどうか?チェックする必要がある。「万世一系の天皇」も宗教ではいい?でも政治では問題。“自分が見えないもの”を疑う精神も大切! 如何なものか。
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