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家族崩壊を考える [希望]

私は、「2010-11-20「てっぱん」8週・絆の再構築」、「2010-12-04「てっぱん」10週・絆の
解体と再構築」などのブログで度々、「家族の絆」、「人間の絆」について論じてきた。
昨日たまたま、月刊雑誌「世界」2月号、「家族の崩壊」に関する記事を読み出した。
最初の二神能基×雨宮処凛の対談記事に関し何か違和感を覚えた。記事の内容を追いながら、
その原因などを考察してみたいと思う。

「経済戦士を育てる工場になっている家族で、家庭内暴力が拡がる」
「明治維新」以後、家族は様々な戦士を育ててきたが、家庭内暴力現象が顕著になったのは
ここ数十年の事。従って、「戦士育成工場」が家庭内暴力の原因ではない?

「ニュースタート(二神の運営する事務局)に来る若者の家族のイメージは“泥沼”」
この発言は特殊な若者に限定すれば肯けるが、一般化したいと言う意図が見え見えである。
これは、針小棒大のイカサマレトリック?こういうイカサマを使って世の中を歪曲し、それを
自らの飯の種にしようとしている様に思える。雨宮も二神も若い頃に悩んだ経験がある様だから
解るだろうが、悩みから覚めてみれば、何と言うことのない迷い?コケてもタダでは起きない
根性で「迷いの経験」を、社会に活かそうというなら立派だ。しかし対談記事を読んでいると
迷いの体験で迷える子羊たちを導く似非伝道師と見えるのだが? もう少しだけ進める。

「若者は、家族は「偽装」なんだと気付いている。・・・相談が行き詰ってきた時に、家族解散宣言!
を親にいうと、母親はひどく明るい顔になる。・・・このまま行けば(家族は)絶滅に至る。」
二神のこの発言は、悩める家族をオチョくっている。「偽装」などという言葉を使う事によって、
相手の意表を突く。ご託宣を告げるインチキ霊能師さながらの演技?若い頃に悩んだ経験は
素晴らしい方向に活かす事もできるが、こういう方向に逝かす事も可能なのか?

「親世代が若者の未来を奪い取っている」、「一触即発の冷戦家族」・・様々な現代社会の歪を
書き並べているが、過去にはもっと酷い「間引き」、「人身売買」、「姨捨」等もあった。
そうでない日本社会が日本歴史上、どこにあった?真実を見ず、精神的自立が出来ない人は、
貪欲な人々の餌食にされてしまう?それが自然の摂理?社会正義を振りかざして国家の破綻を
面白がる人間が蔓延っている?自立した人間は踊らされるな! 如何なものか。





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健忘症? [希望]

昨日、今日は祝日ということを忘れていて妻から注意されていたのに、今日午後2時頃の
散歩途中で、若夫婦が懸命に大掃除しているのに出会い、思わず「旦那は三交代?」と
思ってしまった。またも忘れていたのである。(三交代勤務は平日休みになる)

毎日が休日の私にとって、休日・祝日という概念そのものが価値をなくしてしまっている。
しかし正常な日常生活を送るために、夏休みや大型連休の様な長い休みを初め、それなりに
休日を意識しているのだが、時に今回のような“ポカ”がある。特に新しい休日を忘れやすい。
緑の日、海の日、国民の祝日(国民の祝日と国民の祝日の間に1日だけはさまれてなおかつ
その日が日曜日か月曜日ではない日)。それと毎年日が変わる成人、敬老、体育の日
兎も角、今日の天皇誕生日を忘れたのは、大失態。世が世なら、‘不敬罪’に問われた?

これは健忘症などと気楽なことを言っている状況ではない?それでツラツラ、反省した。
一つ 世の中の動きに対して、余りに鈍感? 鈍感力などと気楽な事は言えない?
二つ 自己の興味、好みによる選り好みをしている? 率先して人と会わない。
要は、最も安逸な状況に我が身をおくように、無意識的に行動している表れではないか?

何時かの「ためしてガッテン」の認知症の番組で、
認知症でも感情を伴う記憶は長く保たれる。こうした「感情の蓄積」が認知症の悪化に
つながるという。これを、認知症になる前の人に当てはめて考えると、「感情の蓄積」は
健常者→→認知笑(健忘症)→→認知症へとつながるのではないか?
何を言いたいかというと、健常者における「感情の蓄積」が、無意識的に安逸な状況に
逃げ込み、そこにおける適度なストレスのない生活が、健忘症へと落ち込んでいく?
そして、更なる「感情の蓄積」で、認知症へ、そして重症化へと落ち込んでいく?

人間の肉体も精神も、適度なストレスに曝されてこそ、健康に生きられるのではないか?
認知症の方が「感情の蓄積」で症状が悪化するのは、既に些細なストレスにも絶えられない
からではないか?現在の若者等が、傲慢に成ったり、罪を犯したりするのも、精神を鍛えず
弱いために、ストレスに絶えられず、「感情の蓄積」を高じたが為ではないか?
私も、筋トレやスロージョギング、散歩などによる肉体の鍛錬だけでなく、精神の鍛錬を
しなければ、知らず知らずの内に、「感情の蓄積」に負けてしまう? 如何なものか。

日本の未来'10.11月・② [希望]

日本の未来に希望を持つためには、「共助」も大切である。民間による相互扶助である。
一番身近に感じる「共助」は、生命保険や傷害保険、火災保険などの「保険」だろう。
NPOなどによる活動なども、「共助」の活動に類する。「共助」の歴史は古い。
私の古いブログで2007.5.22~3回にわたって書いた「義倉の歴史」でも触れたが、
日本最初の「義倉」の純民営化は、今の所、倉敷義倉(1769)らしい。
倉敷義倉の特徴はお金持ちの寄付が、大きな要素だった。その伝統は、明治以降も受継がれ
大原孫三郎ら、倉敷の民間有力者のリーダシップによって、戦前から素晴らしい地方文化が
花開いた。政・官・業の癒着が云々されるが、孫三郎時代は、素晴らしい緊張関係の中で
政・官・業 皆の力が相乗効果を発揮して素晴らしい街づくりをしたのである。

「共助」にとって、お金持ちの寄付は大切な資源である。うまく活用する仕組みが望まれる。
さて、現代は経済規模が、昔に比べ格段に膨張しており、お金持ちの寄付だけで「共助」は
中々 回っていかないのでは?やはり、もっと別な観点から「共助」を考えるべきでは?
私企業や私学などと「共助」とを、どう連携していくべきか?知恵を出すべきだと思う。
私は、私企業の減税に賛成であるが、私企業は、正に「共助」の中核として大切な存在?
企業が元気になれば、雇用も増えるし、余力は「共助」として、運用しやすくなる。
また、一般市民(消費者)が、的確な評価をする事によって、悪徳企業より正義の企業が
繁栄し、世の中は栄えていくだろう。

減税しなくても一般市民に支持される企業は、高業績となり、「共助」がやり易くなる。
一般市民の選択は、個人や家族にとって最適な商品を選ぶだけでなく、同じレベルの商品
ならば、「共助」に貢献している企業の商品を選ぶという選択の幅が広がるわけである。
お金を使うことなく、社会に関心を持ち、思い遣りの心を持つだけで、「共助」に参加
出来る?素晴らしいではないか?
東京の書店では「正義」の本(著者は外国人)が沢山 積まれていた。
米国では景気後退期にも75%の人が社会的コーズ(大義)のために寄付しており、
マーケティングでは社会的コーズが重視されるという。それでも消費者自身の変化を
促すために新しいマーケティングへ変革していくという。消費者が社会的課題に関心を持ち
自らの課題や社会的課題を克服するために変革するというのである。マーケティングから
個人の自覚を促し、社会的課題に目覚め、「自助」「共助」で変革する。如何なものか。

日本の未来'10.11月 [希望]

民主党政権交代前から、「いまだ未熟だから政権交代は早い」と言い続けた。そして、
その後、日毎、夜毎に、私の予言通りになってきた。先日の上京で会った知人から
「民主党もダメ、自民党もダメ。日本はお先真っ暗では?」という話になった。内心、
私は自民党に少し望みを抱いていたが、自民党の悪事に詳しいA氏に反発する勇気もなく
何となく同意した。

政治の未来≒日本の未来というのが、会話時点におけるA氏の心境ではなかったか?
私も、会話時点では、恐らくそういう気分だったと思う。後で考えると、
私の考え方は、‘政治の未来≒日本の未来’ではない事に気付いたのである。

この問題に改めて向き合って、私が民主党を批判している真の意図が見えてきた。
私が、一貫して民主党を批判してきた根っこには、「良民を愚民に陥れる政策」がある。
或いは、「党利党略を恥じない人格が、社会を支配する姿の良民に及ぼす影響」がある。
「格差」等に目くじら立てるような愚民ではなく、社会全般、国際社会に広く関心をもつ
「愛」のある良民を育成するための環境作りに、一役かっていたつもり?
社会全般に広く深い関心をもった、社会全般への「愛」に溢れた人間性が大切なのだ。

民主党も自民党も、日本の将来に役立たずならば、国会議員の数を大幅に減らせばいい。
そうすると、当選のための得票数が膨大になり、政治と金の問題は少なくなる。また
鳩山さんのような大金持が、貧乏になる位、金が掛るなら、階層間の風通しも良くなる。
小泉さんの言っていた「規制緩和」も大切だ。ただし、食の安全に関係する農業や
国の安全に関する防衛、広域にわたる治水・土木などは、真剣に議論する必要がある。

明治維新以後、列強に飲み込まれるという「不安感」から、大きな政府路線を突っ走った。
その行過ぎが第二次世界大戦。戦後は、敗戦国からまた一等国を目指して大きな政府路線。
現代日本では大きな政府になっているという認識が強い。しかし千数百年の日本の歴史上
大きな政府路線は高々140年。元々は小さな政府の伝統であった?
問題は、現実の政府が大きいか?小さいか? ではない。そうではなく、まず
民衆が、「自分達の政府を小さい政府であると考える事」が大切なのではないだろうか?
私の考えでは自民党の「自助、共助、公助」の考え方が一番いいと思う。如何なものか。

自民党の未来? [希望]

今日発売の月刊誌「文芸春秋」十二月号を購入。一番先に読んだのが、聞き手・田崎史郎の
“小泉進次郎の初ロングインタビュー「自民党はまだ野党のままでいい」”だった。

昨日のブログで政治家の資質について書いたので、非常に興味があった。何によらずそう
だろうが、政治家の資質も、組織的に伝承してこそ、有用な人材が育っていくのだと思う。
保守本流の自民党がダメになると言う事は、政治家の様々な貴重な育成機会が失われる。
そうすれば、日本の政治そのものが貧弱なものになってしまう。そういう心配があるので
自民党の将来を占うというような気持で、記事を読ませてもらった。

進次郎氏の主張は、‘自民党の党是、「自助、共助、公助」のバランスの取れた社会’だ。
“共助”とは民間で助け合う事。それでもダメだなら税金をつぎ込む“公助”で面倒を見る。
彼は、一年生議員で経験も知識もないことを痛切に感じている。偉ぶったところはないが
自分が、こうと思う信念は、はっきりと表現しているのが素晴らしい。
以前に週刊誌で読んだが、仙谷官房長官は、国会論戦ではなかなかケンカ上手な経験、知識を
お持ちだが「どういう世の中をつくりたいか?」の質問に、「忙しいから」と逃げたという。
ベテラン政治家だから、‘腹に一物 背に荷物’。何がしかのものはあるだろう。しかし
そういう隠蔽体質では、結局、古い体質の政治家と‘同じ穴のムジナ’だと言うことだ。
有権者と政治家の関係も‘有権者のいうことを受入れるだけではダメ’と、民主党における
小沢・菅の代表選挙の事例を引いて、それを、見事にバサリと切り捨てた。アッパレ!
自分のやりたい政策理由を説明して、政治家と有権者の相乗効果を上げる政治という訳だ。

野党経験しかない一年生議員・小泉進次郎には、怖いものは何も無いかのよう。見事な
若武者振りである。世阿弥の能楽論「風姿花伝」の‘二十四五’の項に書かれている様に
「よそ目にも、すは上手、出で来たりとて、人も目に立つるなり」。しかし、それに
思い上がっては、その人のためにならない、と世阿弥は注意しているが、進次郎氏には、
いらぬ心配のようである。一時間の国会質問に三日を要するという塩川正十郎先生の教えに
自分は、頭が悪いから様々な問答を想定して、もっと考え抜くという。
私は、政治家としてもっとも大切な事は、どういう社会を形成していくかというビジョンを
実現するために、自ら考え抜き、その輪を広げていくことだと思う。如何なものか。

祝-チリ鉱山事故救出 [希望]

今日は気持のいい日である。
チリ鉱山落盤事故で、地下700mに閉じ込められた33人の人々が日本時間の今日午前中、
全員救出されたという。8月5日以来、69日が経過したにも拘らず、全員が生還した。
奇跡というしかない。朗報に世界中が湧いた。心から関係者の人々を祝福したい。

8月5日事故が発生した2日後、再度落盤事故が起こり、一時、救出の見込みが断たれた。
紆余曲折があって8月25日にチリ当局者が救出に数ヶ月かかると鉱山作業員に伝えたと言う。
私は、そういう時点で、全員救出は困難ではないか?と心配した。その理由は、
1) 地下環境の中で既に20日を経過しているのに、なお数ヶ月は肉体的に難しい?
2)33人という人数からして、落伍者の確率が高いのではないか? 等である。

私の心配は、喜ばしくも杞憂に終わった。私の心配の何が間違っていたのだろうか?
1)鉱山作業員の体力に関して、完全に読み誤った。恐らく一般人と異なるだろう。
2)チリの人々の信仰心を含む精神性という面を理解していなかった。
3)このような極限状態におけるリーダや精神的支柱(長老や牧師)の重要性を見落とした。
4)非常時においては体力のみでなく、楽観的な考え方のウェイトが高い点を見落とした。
5)チームワークで、人々が助け合う事により生み出される大きな力を過小評価していた。

この事故と救出という世紀の出来事は、自分の体力や精神力をベースに考えていた私の
愚かしさ、そして人々の信仰を介した絆の強さを、嫌という程、思い知らせてくれた。
私は、「信仰を介した絆」というものを、ドラッカーの「真摯さ=integrity」と解する。
今回の極限状態におけるリーダや精神的支柱(長老や牧師)の働きは、必要以上を欲せず
正直・誠実であるという資質が備わっているからこそ素晴らしい成果を得られたのでは?
各作業員を含め、神の前で人間は平等であるという信念により、この奇跡は達成できた?

この世紀の救出劇は、現代人が失いつつある「真摯さ=integrity」が原動力であった
と言えば、日本では牽強付会を免れないだろうが、私は敢えて、そう言いたいのである。
現代人が失いつつある「真摯さ=integrity」は、社会の基本であったはずである。
それがチリの奇跡の救出によって、大切さが見直されても決して可笑しくないだろう。
これから生まれる様々な伝説や神話の中に「真摯さ=integrity」を!如何なものか。

待宵_'10 [希望]

待宵とは、名月の夜を明日に控えて、気もそぞろの人々の心持をいっているのだろうか?
昨夜の十三夜は、心配して19:00過ぎに空を眺めたら、厚い雲から一瞬、顔を覗かせ、
また雲隠れしてしまった。21:00頃、外に出ると、薄雲はチラホラあったが、美しく
輝いていた。何か、名残惜しい気がして、近くのグランドまで散歩して、ゆっくりと観賞。

◎ 十三夜 うりざね顔の お月様
◎ 薄雲は 美人を被う ベールかな

“暑さ寒さも彼岸まで”は、今年には通用しないのか?昨日、彼岸の入りだったが、
当地・倉敷は、今日再び、真夏日(最高気温・30℃以上)になった。
疲れが出たのか、今日は、午後、珍しく昼寝をしてしまった。
夕方に、散歩。帰り道には日も暮れかかり、東の空には、待宵の月が出ていた。

◎ 待宵や すこしふくよか お月様

朝は雲が多く、昼間も相変わらずだったので、何か、冴えた夕映えの月は印象的だった。

◎ 小望月 いにしえ人も 愛でしとか

今夜もグランドまで、散歩しながら月見を楽しんだ。
空には、雲一つないようだった。が、残念ながら満天の星空とはいかない。
水島臨海工業地帯の夜間の照明やフレアの光は、昔に比べて随分弱くなったとはいえ
里山の稜線はくっきりと影絵のごとく浮かび上がっている。

グランドで感じる夜風は、実に心地よかった。遠い昔を思い出すような気がした。
そうだ!この風は、8月も半ばを過ぎた頃の、夕涼みの風の感じなのだ。
時代は代わり、日本列島は不夜城と化し、世界は地球温暖化の危機を叫ばれるが、
風の味わいの中に、いまだ変らぬものがある。月の光の尊さも、月を愛でる人の心も、
今も昔も、変りはない。風の流れのように、
自然の信頼関係のなかで、自然の流れに沿って生きたい!如何なものか。

'10夏の全国高校野球大会 [希望]

DSC08601目覚し.JPG昨日は、バスを連ねて、甲子園まで、岡山県代表の倉敷商業高校を応援しに行ってきた。私にとってこの様な応援は初体験だ。前日は、冷凍の利く飲料水や駄菓子その他、小さい頃の遠足気分で準備万端整え、19:30には床に就いた。早朝の5:15に最寄の場所に集合との事で、朝の3:00(左の写真は目覚し時計の起床時間を記念に撮影 画像の上でクリックすると拡大写真になる)に起床した。なかなか寝付けなかったが何とか6~7時間くらいは睡眠を取れたのではなかろうか?
DSC08607倉商bus.JPG
バスの窓に、“必勝!倉敷商業<校章>”の文字が跳ねる。高速のPAで撮った。今夏の全国高校野球大会は、連続出場3年目である。3年連続は倉商野球部始まって以来の快挙だ。一回戦の対戦相手は強豪の早稲田実業だが、応援に集う人々の中から、弱気な発言は全く聞かれない。倉商の今年の一文字は、「越」。先輩を越える!を合言葉に急成長を遂げたチームに、応援団は全幅の信頼を寄せていた。
DSC08608バス列.JPG
三枚目の写真は倉商応援団のバスの列である。撮影場所の後ろにも沢山のバスが駐車していたが逆光になるので撮らなかった。生徒の応援団、学校OB、父兄、また様々な人々が仕立てたバス等、60台近くになるとの事だった。たまたま知合いの先生にバッタリ会った。生徒の応援団を引率しているのだ。暑い中、大変だろうが、率先して楽しそうにやっている姿に、立派な先生だなぁ!と感心した。よし!これは早実相手でも勝てそうだと、気分も盛り上がった。DSC08611試合後.JPG
最後の写真は試合後、選手達がアルプススタンドに挨拶に来た後シャッターを切った。結果は残念ながら2-0で負けた。彼らが挨拶している時には慰めの言葉をかけるのに懸命で写真を撮るのを忘れていた。彼らのうちの数人は泣いている様にも見える。観戦していても気が遠くなる暑さの中、選手たちは良く頑張った。強豪・早実に一歩も引けをとらない堂々たる試合だった。2つのエラーに絡んで2点取られたが、あのエラーの瞬間は、私もボーッとしてしまうような一陣の魔の熱風が通過した瞬間だった。鍛えに鍛えた選手達にとり、あのエラーは悔いても悔いたりないだろう。だが人生には人智の及ばぬこともある。鍛えた心身を大切に、これからの人生を立派に過ごしてもらいたいものである。如何なものか。

広島原爆の日'10 [希望]

朝食時に、原爆式典のTV実況放送を観た。今年は潘基文(パン・ギムン)国連事務総長や
米国のルース駐日大使のほか、英仏両国の代表も初参加した。国連事務総長の扱いに比べ
ルース駐日大使や英仏両国の代表は、末席に近い扱いで、勿論、スピーチもなかった。

今年の原爆式典が、例年に無く盛り上がったのは、オバマ大統領のお陰である。
昨年10.10のブログ「カオス?コスモス?」でも触れたが、オバマ氏の核廃絶の呼びかけが
世界中の多くの人々の心を捉え、世界的な盛り上がりを見せてきたのだと思う。
この様な時に、今まで参加しなかった米英等が、どの様なメーッセージを発するか?
聴いてみたかった気もする。

「ポストモダンの共産主義」の著者・ジジェクは、“破局への対処法”について書いている。
「大惨事を避けるための唯一の道は、それを不可避な事として受入れることである。」
「その上で運命を変えるために、時間を超えて未来に追いつき向き合って、実現して欲しい
未来が、そこにあるかのように、今、行動することである。」という。
式典を観ながら、ジジェクなら、どんな感想を漏らすだろうと思った。

スラヴォイ・ジジェクは、前述の著書の中で、“ポストモダン資本主義”の限界と矛盾を指摘し、
昔の人が、自堕落な人生の終末で「宗教」に回帰するように、反コミュニスト左派の人々に
マルクス共産主義を超えた“ポストモダン共産主義”への回帰を呼びかけている。
果たして、オバマ大統領のパフォーマンスは“ポストモダン資本主義”の上塗りなのか?
それとも、大惨事を避けるための唯一の道を指し示すものなのか?

いずれにしても
“ポストモダン資本主義”の見極めには、もう少し時間が掛るのではなかろうか?
そしてまた、裏切りの反コミュニストが晩年に“ポストモダン共産主義”と和解するのは良いが
従来の共産主義同様に、若い人々が軽々しく “ポストモダン共産主義”に飛びつく軽薄さは
慎みたい。“破局への対処法”を心がければ、物質世界の急変、即、破局にもなるまい。
精神世界は必ずしも即応できないので、物質世界における調整も必要では?
まあ要らぬ老人のお節介? 如何なものか。

精神成長と経済成長 [希望]

昨日、政治が、経済成長に偏って、精神成長を蔑ろにしているのではないか?と書いた。
政治家は、国民の不満は物質的欠乏感が原因だと思って経済成長優先のようだが、果たして
物質的欠乏感だろうか?
私は、国民の不満の原因は精神的豊かさに対する欠乏感(精神的欠乏感)だと思っている。

例えば、日本国憲法の第三章に 「国民の権利及び義務」 という章がある。例えばその中の
第十四条 すべて国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地に
より、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。
栄典の授与は現にこれを有し、又は将来これを受けるものの一代に限り、その効力を有する。

この第十四条が有効に機能しているだろうか?または機能していなければ是正措置を取ろうと
しているだろうか?二世議員その他、様々な問題をこういう観点から検証する価値がある。

中国人弁護士・厳 義明(イエン・イーミン)が、“今の日本社会や日本人に必要なのは、
良い意味で「変人」を許容する土壌をつくることではないでしょうか。”、“日本人は
「異質な考え」、「異質な人物」に対する拒否感が大きい。”、“同質的な社会は、なかなか
革新的な「創新」は生れにくい。”と、「文芸春秋」7月号・「極貧日本留学生がエリート
弁護士になるまで」に書いてある。イエン氏の執筆意図は、日本の経済成長に資する忠告で
あるが、私は、それはそのまま、日本の精神成長にも資するものだと確信している。

現代日本の閉塞感は、信条、性別、社会的身分又は門地その他の「異質性」によって、
暗黙の差別をされるのでは?という得体の知れない恐怖感に打ちひしがれた人々が増大した
結果ではないか? 日本人が憲法に保障された個性的な個人として、のびのびと生きられる
環境を作ることによって、日本人の精神成長を成し遂げることが、何よりも大切ではない
だろうか?内閣の最も大切な職務は、法律の誠実な執行である。憲法という根本法規が
どの程度、守られているか?様々な形で検証し、誠実に執行できる対策を講じるべきでは
ないだろうか?日本人の精神成長の障害を取り除くことが、経済成長にもつながっていく。
一石二鳥の素晴らしい政策アイデアではなかろうか。(我田引水?) 如何なものか。

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