SSブログ

大震災対応[雑感] [希望]

昨日、大震災の対応に関するTV番組を取上げて、その感想を述べた。その中で日本人は、
生半可な西洋文明の大衆化(例えばマルクス主義の悪影響)によって、人間の主人公である
魂・霊性を、丸で迷信のごとき古い考えとして捨て去った、と書いた。
この日本思想史上の最も憂慮すべき悪影響を一掃する一助として、二、三雑感を述べたい。

確か論客の1人、保阪正康氏が今後の対応として「大震災後の価値観を大転換すべき」と
述べたと記憶するが、そういう観点からは「物質 → 魂・霊性」への価値観の転換では?

西洋の近・現代思想が昔の尊い叡智を行過ぎて批判した。例えば独善的(普遍性がない、
或いは、文化に毒されているとか、偏狭な教え)であるというのは、法然・親鸞の教えや
白隠禅師の教えには、全く通用しない。法然や親鸞、あるいは白隠は、そんな狭い了見の
叡智ではない。彼らは、視野の拡大、発想の転換、多様な視点等へと導いたのだ。
白隠禅師には、多くの軸中軸画が残されている。また浄土真宗の教えの中から生まれた
妙好人という人々は、「南無阿弥陀佛」を唱えるだけで、阿弥陀如来の本願を思いやり
如来の心になって、世間を見るのである。

妙好人の1人、讃岐の庄松という人の逸話に、次のようなものがある。
 庄松が、犬の前を通るときに挨拶して通った。それを連れのお坊さんが見咎めて
 「犬等にお辞儀したりするから、人はお前をバカにするのだ!」と言った。庄松答えて
 「犬も十方衆生の中、仏のお誓いのかかっているもの。自分はお誓いを拝むのだ。」と

 友人・菊蔵とご本山へ参詣した庄松が、本堂で横になって寝た。それを菊蔵が咎めた。
 庄松曰く「親のうちじゃ遠慮には及ばぬ。そういうお前は、ママコであろう?」
数多くの妙好人を発掘した鈴木大拙は、日本思想は物心一如の哲学であると言っている。
以上の如き論法で、保阪正康氏が提案した「価値観の大転換」に具体的方向を示した。

現実の世界は、思想的対立や文化的亀裂、物欲による民族紛争や金融危機、災害、事故など
様々な出来事によって流動的である。それは個人の生活、コミュニティ社会、そして全世界
へと波及していく。グローバル化によって、社会は砂状化・流動化しやすくなっている。
物理的災害の対策としての防波堤や耐震強化などの対策も大切である。だが一人一人の心、
感情、精神、そして霊性(魂・人間の主体そのもの)が、家族やコミュニティと連携して
砂状化・流動化を押さえ、ソロスの再帰性を回避しなければならない。如何なものか。
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

霊性と憲法記念日特集 [希望]

今朝のNHKの憲法記念日特集~この難局を乗り越えるために~を視聴した感想を書きとめる。
大震災と原発事故で何が問われているか?政治の役割は?という課題に、6人の論客
(元内閣官房副長官・石原信雄、作家・保阪正康、ジャーナリスト・鳥越俊太郎、経済評論家・
伊藤洋一、精神科医・香山リカ、国際人権団体日本代表・土井香苗)が討論。神志名泰裕
(かしな やすひろ)NHK解説委員が司会した。編集の不手際が気になったが良くまとまった?

私は放送を視聴しながら、論客の今後の対応に関する意見と、その対応の障害となる課題を
整理して、そのギャップを埋めるための方策に関して思いをめぐらした。
先ず、論客の今後の対応に関する意見は、以下の様になる。
1.適切な国民負担を避けるな 2.命を最優先する 3.大震災後の価値観を大転換すべき。
4.自己否定と再生 5.危機をチャンスにする力 6.日本力(現場力等)を活かす となる。

論客が考える幾つかの課題は、発言者の意図を理解してまとめた。結果は以下の通り。
1.国民の政治または政治家に期待する内容が曖昧? 2.国民の意識の問題。 3.日本における
民主政治のレベルの低さ。 4.政党が本来の使命を自覚しない烏合の衆。 5.政治家の劣化。
6.ネット社会等による国民の砂状化と流動化現象。 7.メディアが煽るが原因は国民の嗜好? 
8.二十世紀の思想の時代から、世界的に思想の行き詰まりによる世界的な混迷の時代?

大震災を反省の機会として、真面目に生き方を見つめなおす必要がある。そういう反省の基に
6人の論客が示した再生への対応はどれも大切だ。対応に当って、国民の一人一人が政治や
政治家に丸投げせず、自らの家族や地域やグループの問題として取組む事が大切である。
そのための課題として、論客達が掲げた課題を、読み解く必要がある。
1.~3.6.7.の課題には、国民の政治意識、民主主義に関する認識の甘さということがある。
街頭インタビュで中年の男性が、「一人一人が勉強して、政治家を追及しなければ!」という
意見を言っていたが、正にその通りである。では、なぜ、そういう風にならないのか?

それは、論客の1人(土井香苗女史)が言っていたが、選挙民個人と政治家の間に、情報・
知識・思想等の距離がありすぎるからである。女史は、その距離をNGO活動で埋めるという。
女史の新しい取組みに期待したいが、アメリカ仕込みのやり方を真似するだけでは難しい?
女史は心得ているだろうが、受入側が、その志をしっかりと勉強しないと本物にならない?
日本人の民主主義に関する認識が甘いのも、国民意識の砂状化・流動化するのも、結局は、
日本人の対話能力が貧弱で、政治等を論じるコミュニティが崩壊した事に遠因があると思う。
何故、日本人には深い対話が成立しないのか?その要因は、発言内容を、自分と同じ背景を
持った人間だと早合点するからである。相手の意見の背景を理解する努力が足りない。


続きを読む


nice!(6)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

山の笑み [希望]

今朝の散歩で、街路の木々や山の新緑が、霞(黄砂?)ながらも爽やかだった。
◎ 里山の 笑みにカスミの ベールかな
もうすぐ立夏を迎える今頃目にする風物は、夏の季語になるものも多いので難しい。
正直に、「新緑」を褒めると、「夏」になってしまう。石楠花も夏の季語である。
「山わらう」は、春の季語。霞も、黄砂も春の季語だが、笑みに黄砂は頂けない?

今日は、東大寺・聖武天皇祭。天平勝宝 8年(756)に崩御された聖武天皇の御忌法要の為、
天皇殿で論議法要「御忌最勝十講」が営まれるという。“論議法要”という4字熟語は余り
お目にかからないが、一般常識では意味が通じないのではなかろうか?その原因は「法要」
という用語にある。日本では、次第に供養(追善供養)を指すようになり死者を弔う法事・
仏事・法会などの儀式祭礼に転用されたからである。「法要」の意味は仏教において釈迦の
教え(仏法)、仏法の要点・要を知ること。従って“論議法要”は、色んな角度から経文の
内容の質疑応答を重ね、釈迦の教え(仏法)を知ること。マイケル・サンデル教授の
「正義」に関する白熱教室をイメージすれば、理解可能なのではなかろうか?

奈良時代には仏教も白熱教室が随所に開かれていたらしいが、今や儀礼化されたのは、
仏教が古いからなのか?私はそうは思わない。私は「南無阿弥陀仏」という口称念仏の教えの
真意を法然展と親鸞展で学んだ。法然も親鸞も末法という爛熟社会で、もう先のない世と
思ったから社会のあらゆる人々を救うには、「口称念仏」しかないという結論に達した?
そして「口称念仏」で救われる生き方が望ましいと考えたのである。
そのお陰で、多くの日本庶民に素晴らしい人々を輩出し、大きな影響を与えた事は、
特筆大書すべきである。法然も親鸞も、時代の要請に応えたのである。

法然や親鸞の教えが、庶民の霊性を開花・発展させ、社会大衆による生産性の向上、そして
余剰生産による庶民の豊かな創造性を生んできた。しかし日本社会の発展や、外圧によって
法然や親鸞の教えが、様々な事柄や異国の文物(江戸時代や明治以来)と表面的に相容れない
ということも事実である。法然や親鸞の教えは実に素晴らしい!それは仏教の真髄でもある。
法然や親鸞が、現代の日本を知れば、もっと別の教え方も考えてくれたのでは?
法然や親鸞は日本に仏教伝来以来、約700年経て、日本人的な鎌倉仏教を建立した。そして
鎌倉仏教の誕生以来、すでに約800年を経過した。法然や親鸞の教えには、現代においても
人々が、自己本来の霊性を把握し、様々な文物を、立派に活かす教えも含まれている!
法然や親鸞の教えを現代に活かす「白熱教室・教師」よ!今こそ出でよ! 如何なものか
nice!(4)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

精神的外傷後成長(PTG) [希望]

何気なく月刊「文芸春秋」5月特別号を手にとって、最初の記事を見たらPTGという見慣れない
略語が目に付いた。精神的外傷後成長(Posttraumatic Growth)の事らしい。
トラウマ(精神的外傷)は障害(PTSD)となる場合があるが、一方において人格形成に積極的
働きをして人間的に大きく成長させるPTGという働きもあるという。最近、注目されているらしい。
当該の雑誌記事では、著者の立花隆が、子どもの頃の戦争体験や、阪神淡路大震災の時に
小学生だった人々の体験談と共に、今回の大震災体験とPTGを関連付けて記述していた。
立花隆は、東日本大震災体験者をPTG第二世代と位置づけて日本の再生に期待していた。

あるブログ(http://blog.zaq.ne.jp/nagamasa/article/144/)に、
小児がん経験者のPTGに関する厚生労働省の研究班で実施したアンケート調査が載っていた。
要点だけを抜書きすると、(詳細については、ブログのURLを参照)
「自分の命の大切さを痛感した」、「他者に対してより思いやりの心が強くなった」
「人との関係に更なる努力をするようになった」、「新たな関心事をもつようになった」
「一日一日を、より大切にできるようになった」、「人と比べないことが大事と気づいた」
「メンタル面では粘り強くなり、成長したなって思える時もあった」

私が、何を主張したいのか、を示したい。
まず私は、PTGと直接被災者とを、立花隆のように安易に結び付けようとは思わない。
今の段階では、PTSDにならない様に気配りすることが先決だと思う。私が注目したいのは、
今回の大震災報道による間接的トラウマである。今回の大震災報道は、発生時刻の関係もあり、
たくさんの自然の理不尽な猛威を鮮明な画像で映し出した。尚且つ、その映像を、繰返し繰返し
流し続けた。そのために直接被災者とその肉親以外の多くの日本人がトラウマを負ったのでは?
ということである。恐らく、テレビ等で災害報道を放送する番組関係者等は特に、トラウマを受けた
のではなかろうか?だから、あそこまで執拗に放送し続けたとしか思われない。従来の日本人の
常識を超えたものだった。

お陰で日本にはたくさんのトラウマ体験者が生れた。これらのトラウマ体験者はPTSDまで進展
する可能性は少ないが、それだけ、多くの日本人が、PTGの可能性を秘めているということでは
なかろうか?報道その他によって精神的外傷を受けた人々にPTGという考え方を普及する事に
よって、これからの日本は変われるのではないか。そういう可能性を考えて、様々な企画を考案
する事が、今後の日本の質的発展につながるのではなかろうか? 如何なものか
nice!(4)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

法然展と親鸞展 [希望]

月曜日から所用で関西方面に出かけていた。ついでに、法然展と親鸞展に行ってきた。
法然展は、法然上人八百回忌・特別展覧会「法然 生涯と美術」・京都国立博物館。
親鸞展は、親鸞聖人七百五十回忌・親鸞展「生涯とゆかりの名宝」・京都市美術館。

法然は、1133年岡山美作の国に生まれ、13歳で比叡山に登り、15歳で出家受戒した。
43歳(1175)で、浄土宗を開く。凡夫にとって救われる唯一の仏道は、口称念仏である事を
 善導大師の「観経疏」によって確信した。
54歳(1186)に、天台宗の学僧・顕真法印の主催で「法然の念仏の教えは正しい仏教か?」を
 テーマとして総計300人に及ぶ大討論会が行われ、凡夫のために相応しい教えと認められた。
 これによって、顕真法印も、法然の浄土教に深く帰依したと伝えられている。
69歳(1201)、親鸞、比叡山の常行三昧堂を出て、法然の門に入る。
80歳(1212)、1月25日 入寂
法然に関する美術で最も印象に残ったのは、「法然上人絵伝」であった。

親鸞は、1173年に京都の南(現在の京都市伏見区)、公家・日野氏の家に生れた。
9歳(1181)、比叡山の慈円の僧坊で出家。29歳(1201)比叡山を下り、法然の門に入る。
52歳(1224)、「教行信証」の草稿本完成?
90歳(1262)、11月28日 入滅
親鸞展では、美術よりも経典の写経と注釈著作など努力の跡に関する膨大な資料が目立った。
また、“一流相承系図”や“親鸞上人門弟ら交名”と呼ばれる、法統を継ぐ系図も珍しかった。

合理的知識の伝承はマニュアルや教材などによって行う事が出来るが、
人間の感性に訴える智慧の伝承には、人間性が非常に大切なのであろうか?
曼荼羅やそれに類する絵は、ある種のイメージトレーニングに使われるのであるが
誰が誰の師匠であったのか?といった人脈を知識として系統立てる事が、何らかの
イメージトレーニングに役立ち、インスピレーションを発するのだろうか?

法然、親鸞という日本宗教界・最も有名な師弟の二つの展覧会を二日連続で観覧し
様々な直感が働き、積年の努力が報われ、疑問が解けた歓びで感謝の気持に溢れている。
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」 如何なものか
nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

被災地現場の人々 [希望]

東日本大震災の被災地では、さまざまな人々が頑張っている。
勿論、最も頑張っているのは、直接、被災された皆さんである。
被災地の警察官、消防士、役所の職員、原発事故現場の作業員などの方々は、その上に、
皆のため自己の職務を遂行されている。各地から派遣された警察官、消防士、自衛隊員、
海保隊員、各国派遣隊員、赤十字員、ボランティアの方々なども頑張って支援している。

被災された皆さんは、自己の被害を嘆くだけでなく同様の被害を被った人々を思いやる。
「思い」は人に見えないが「思いやり」は、画面で見る人々の言葉の端々から垣間見える。
mns産経ニュース(2011.3.17 09:47)では、東京電力福島第1原発・現場の作業員を
たたえる声がインターネット上で広がっているという。今回、原発事故で非難されるべきは
政府や東電幹部であって、現場の作業員で無い事は明らかである。

自衛隊をはじめ、各地から派遣された方々のご苦労も思いやられる。昨日のTVでは
近隣から応援に駆けつけた消防隊員の方々は昼間は一般の人なら神経が参ってしまう様な
過酷な救援作業に従事し、碌な食事も摂れず、夜は寝袋で寝たという。大変である。
自衛隊、その他の皆さんも同様であろう。mns産経ニュース(2011.3.17 00:09)に
自衛隊派遣の事で、「常識を越えた自衛隊10万人」の記事が掲載されていた。

菅首相は12日に派遣規模を2万人から5万人に拡大すると表明。それが13日夜になって
10万人へと倍増させた。菅首相お得意の朝令暮改・スタンドプレー指示である。
通常、軍隊が最前線に回せる兵員は総兵力の10~20%とされるらしい。
自衛隊の総兵力は24万人だから、2.4~4.8万人という事になる。10万人の派遣は軍事的な
常識を無視したもの?こういうことが出来るのも米国軍の駐在あっての事であろう。
負んぶに抱っこでありながら、我儘をいうのは、「子ども」である。

月刊雑誌「Will」4月号に、西部邁のマスコミ批判記事が出ていた。しかしそれを読むと
世論に流される愚かな“大衆社会”に君臨しているつもりのマスコミが、実は“大衆社会”に
飲み込まれている、という入れ子状態を言いたかったようだ。
菅首相も、日本に君臨しているつもりで、自衛隊をあごで使っているが、既に日本社会に
飲み込まれてしまっている?防衛省も大事な意思決定に際しては十分な議論をしないと拙い?
国防は、情や、政治的な駆け引きで決めるべきではない。「阿吽の呼吸、以心伝心」では
帝国軍隊同様の過ちを犯すのではないか? 如何なものか。
nice!(4)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

教育と障害者福祉 [希望]

私の愛読しているブログに障害者福祉に携わっている方(Sさん)がいる。Sさんの一昨日の
ブログにコメントしたが、その答えが気になった。深く考えられている様子が伺えたのだ。
コメント欄では言い尽せないので、此処で関連すると思われることを書いて置きたいと思う。

日本の教育現場が「平等主義」である事を否定する人はいないと思う。河合隼雄著「母性社会
日本の病理」(1976)の「能力主義と平等主義」という章で、その辺りを詳しく書いている。
欧米では、小学生の落第が常識だと言う話が書かれている。30年以上前だから変わっている?
兎も角、当時の前年、フランス全体で小学1年生の留年率が33%、小学5年間でストレートに
卒業したのは、27%だという。あちらの人は、分らないのに進学させるのは可哀相!という。
日本では、落第すると面目をなくし、やる気が失せてしまう?だから落第は可哀相となる?

母親は、子どもの能力に関係なく公平に愛情を注ぐ。「出来の悪い子ほど可愛い」というから
能力の低い子の方に余計注意するということもある。人情であるし、その気持は分る。しかし
教育現場で、この母性原理を建前とすると、当然、学業について行けない子どもが出てきて、
それが、中学、高校と進んでいくと、学校がイヤになるのは当然だと思う。

建前の平等主義で進めると、出来ない人だけではなく、優秀な人、普通の人にも問題が出る。
その補償が、学校外の学習塾、或いは芸術やスポーツ指導塾となる。しかし、そういった
枠にはまらない適性を持った人は沢山いる。そういう適性を見出したい人はどうすれば良い?
この変な母性原理の建前が、実社会の教育現場、その他にいつまでもくっ付いて離れないのは
日本人の一様序列という、個性を無視したタテ社会の構造が災いしている。個人的にいかに
多様な価値観に目覚めても究極的には目に見えない上層部の一様序列に列さない限り、唯の
人というわけである。唯の人でいいと割り切るのでは、負け犬になった様な気がする?
そこで我々は、一様序列という既存の社会的評価システムを、多様性を許容する新しい評価
システムに改革する努力をしなければならない。今こそ国民一人一人が変な平等主義の建前の
呪縛から解放される時ではないか?そして国民主導によって、真の教育改革を指導すべき時と
考える。政治が基礎教育と職業教育の有り方と真剣に向き合うように指示すべきだと思う。

国民一人一人の適性にあった能力開発こそ国力の増進、経済的発展につながり、少子化対策
にもなると思う。そして障害者福祉も、障害者一人一人の適性にあった能力開発こそが、
真の障害者福祉であり、社会保障費の削減にもつながると考える。社会福祉の建前と本音に
関して門外漢の私だが、相変わらずの教育現場から障害者福祉問題を考えた。如何なものか
nice!(4)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

絶望を愉しむ [希望]

今日は、月刊誌「Will」3月号の西部邁の記事“「平成の開国」は日本民族の集団自殺だ!”の
読後感を書いておきたいと思う。2010-06-09のブログ「民主党は文明の敵?」でも西部邁の
記事を取上げた事があるが、今回の記事の方が格段に平易な文章で書かれている。参考迄に!
記事の最後、「絶望ほど面白いものはない。・・・中略・・・新年をはつらつと迎える事ができた。
民主党さん有難う。」と、締め括られていた。民主党政治も、高齢者の慰みモノに脱したか?

私が、この記事で同意見、違う意見、勉強になった点を、幾つか拾ってみた。
1.法人税減税でも、何の刺激にもならない。
 (2/8新党日本・田中康夫氏は、日本企業の70%以上が無税であることを確認していた。)
2.法人税減税は、外国企業誘致など雇用対策にもならない理由を明らかにしていた。
 この程度のことを、経済界すら理解していない。経団連が大騒ぎしてエコノミストも追従。
3.民主党は、毎日、右、左、右という場当たり的対応で、国民全体が脳震盪に見舞われている。
4.TPPについても、新自由主義と旧自由主義との区別が付いていない。
(記事では新、旧に区別して自由主義を説き、旧自由主義を、国家を中心とする家族、地域社会
 産業体制、政治構造に至る社会秩序の中で、最大の自由をめざすこと、としている。しかし
 私は西部氏の解釈は浅薄と思う。自由主義に新も旧もない。あるのは西部氏の言う旧自由主義
 のみ。他の自由主義はすべて物事を知らぬ人間が思いつく似非自由主義である。)
5.坂本龍馬が言ったという「日本を洗濯する」のセリフを福山雅治が毎週しゃべるのを、醜い脚本
 とケナしていた。日本人の歴史認識の問題を指摘しているのである。欧米の保守思想家は、
 革命とか、維新というような考え方を、150年間一貫して批判してきた。人間は不完全な動物
 であり、常に過ちを犯す可能性を持っているが故に、「理に適っている」と信じて、大規模かつ
 急速な変化をした場合、大間違いをして転倒する。だから経験に乗っ取り、大きな間違いをせぬ
 ようにしなければならないという。日本でも、生きる知恵として昔からよく知っていた事である。
 欧米の保守思想家に教わるまでもない。

科学万能の世の中になっても、人間の生き方を変えてはいけないのでは?何故って、科学は
「理」に過ぎないのである。それに反して、人間は、「理」だけで割り切れず、表現しきれない。
要は、人生、自分の歴史を振り返り、経験の中から社会秩序の真贋を見究め、着実に一歩一歩を
踏みしめて行きたいものである。そして秩序を忘れ、経験を蔑ろにし、気ままに生きる群集たち
による絶望的社会でも、その「絶望を愉しむ」心の余裕を持とうではないか?如何なものか。
nice!(4)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

生き様と道徳 [希望]

昼食時、日テレ「おもいっきりDON!」の「今日はDONな日?」で
故・横井庄一さん(1915-1997)がグァム島で発見された日だと紹介していた。
今から39年前の昭和47年(1972)の今日である。

横井さんの生き様は、私たち日本人にとっても、また様々な国の人々にとっても色々考えさせ
られる出来事だったと思う。しかし当時、私はあまり深く考えなかった。そこで改めて考えた。
横井さんは、当時の「生きて虜囚の辱めを受けず」といった軍事教育を受けて出征した。従って
米軍の投降の呼びかけにも応じず、会いたかった母親にも会えなかった。自分の人生の最も充実
した時間のはずの26歳~57歳の31年間を戦争とジャングルでの孤独な逃避生活で過ごした。
そういったマイナス面だけを挙げれば横井さんは、為政者のご都合主義に踊らされた?

しかしジャングルでの生活、それも戦争状態としての逃避生活を28年間継続すると言う事は、
他者からの強制だけではできないのでは?受けた教育を自分なりに消化した結果ではないか?
彼は、常に積極的に前向きに生きていた?そして、生きる楽しさを自ら作り出す工夫をした?
そのことは、どんな時代、どんな社会に生きる人々にとっても、大切な事ではないか?
だから、彼は、困難な時代、困難な環境の中で、時代の流れ、為政者のご都合主義にも負けず
己の生き方を貫き通した稀有の人、非凡な人、真の浪漫主義道徳の人だったのだ。

以前のブログで夏目漱石の「文芸と道徳」という講演における浪漫主義道徳と自然主義道徳の話
を書いたが、漱石の意図は当時の狭量な理想主義者への批判で、その世間の風潮に便乗する
為政者、既得権者のご都合主義に踊らされるな!という警告だった。決して浪漫主義道徳を
批判したものではない。真の浪漫主義道徳とは、横井さんのような立派な道徳なのである。
漱石の警告は無視され、不幸な戦争に突入してしまった。しかしこの警告は現代にも通用する。

現代の自己中心的な行動をとる人々は「狭量な理想主義者」、裏を返せば、似非浪漫主義道徳者
であり、今の日本は、そういう風潮に便乗する為政者、既得権者のご都合主義に踊らされている
とみることができる。
現代は自然主義道徳の時代?横井さんの様な立派な根性で如何なる苦難にもめげず生き延び
られるだろうか?そういうことを考えれば、現代の人々は民主党を含む「狭量な理想主義者」
や、その便乗者のご都合主義をしっかりと判別するべきではないだろうか?如何なものか。
nice!(3)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

モンスターペアレントと負のサイクル [希望]

友人からの情報で、教師がモンスターペアレントを提訴したニュースを知った。教師→モンスターペアレント
提訴は始めての事らしい。労働災害の件数でハインリッヒの法則というのがある。
1つの重大事故には29の軽微な事故があり、その背後に300の不安全行動があるというもの。
この法則を今回の事件に適用できるなら、教師→モンスターペアレント提訴の裏には教師側から見て
モンスターペアレント的不平不満現象が、300件は隠れていると見るべきかもしれない。

今後、教師→モンスターペアレント提訴は社会現象になる可能性もある?そこで教師→モンスターペアレント
提訴問題を私の言う「負のサイクル」という観点から読み解きたい。「負のサイクル」とは
労働災害等に例えれば、潜在的不安全の段階で対策を講じて事故を未然に防止すべき所を、
未然防止の歯止めが利かなくなり、事故増加のサイクルをたどる事である。制度が立派でも
運用上のplan-do-see学習が不味ければ、「負のサイクル」を断ち切る事はできない。

まず、義務教育課程の子弟を持った一般的モンスターペアレントについて、私なりに整理しておきたい。
モンスターペアレントとは現象であり、それを体現する人々は経済的弱者のみならず地理的その他の
理由で私立学校に行かせられない富裕層も含まれていると考える。公立の義務教育課程は、
従来からの伝統を引継いでおり、現代における父兄の多様な要望を受入れる体制にない。
従来 社会風土的には義務教育課程は共同生活、集団行動の訓練の場と位置づけられ、
戦前は富国強兵を育成する色合いが濃厚であった。戦後、民主主義が受け入れられたが、
従来からの社会風土が、ある意味では悪平等主義に傾く可能性を内包していた。
もう一つの現象は精神的側面において従来の教育を受けたペアレントが、教育基本法に謳われて
いる教育の目標とは程遠い歪んだ精神的発達でモンスターになっていると考えられる事である。

この様に概観すると、教育風土には欠陥ともいえる部分があるとはいえ、民衆の多くは、それを
受入れているようにみえる。そういう曖昧な状況でモンスターペアレント現象は、国家やその下の教育
(家庭教育を含む)や制度、社会風土の問題なのだろうか?
教育基本法を読む限り、制度に大きな欠陥があるとは考えられない。
モンスターペアレント現象が、未だ少数派であることからすれば、モンスターペアレント現象は国家やその下の
教育(家庭教育を含む)や制度、社会風土問題もさることながら動的な行動連鎖の結果では?
即ち、制度運用上のplan-do-see学習の問題、「負のサイクル」問題ではないかと考えられる。

それが今回、一歩踏み込んで教師からの提訴までになった。公共の場で教育者と一般人が
同次元で争い、裁判所で決着を付けることになった事は、深く受け止める必要がある。




続きを読む


nice!(3)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。