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室町時代とは?(2) [歴史]

従来の歴史観では、室町時代は、様々な権力争い・圧政による暗黒時代という風に印象付けられ
てきたが、様々な史的資料が明らかになって、従来の歴史観が間違っていたという説もある。
現代という時代も、「現代は最悪の時代」と、声高に叫ぶ政治家や一般人も多いのだから、
日本人にとって、暗黒の時代でない時代など無いのかも知れない?

まあ冗談はさておいて、昔は、関が儲けられていて、通行税がかかるから、通商が活発でなく、
庶民は苦労を強いられた、と良く聴かされた。先日も神戸散歩で兵庫津に行って、海にも関所が
あり、入出港船に、関税がかかって、大変だったという話を聴かされたばかりだった。
所が、室町時代の歴史書(集英社版:日本の歴史<9> 「日本国王と土民」著者・今谷明 )を
紐解くと、当時の暗黒面と共に、明るい素晴らしい側面をも物語っていた。
ここでは私が所有している「神戸市立博物館・常設展示あんない」という冊子から、室町時代の
一面を振り返ってみたい。

1)兵庫の港と瀬戸内海の流通
 15世紀前半、兵庫の港は遣明船の発着地となり、室町幕府により修築され最盛期を迎えた。
「兵庫北関入船納帳」という古文書によると、文安2年(1445)に通関した船は約二千隻。
当時と同時代の外国の記録は余り残っていないようだが、前述の歴史書によると、ハンザ同盟で
繁栄を誇ったバルト海沿岸の都市・リューベックと比較した場合に、一桁近く多いらしい。

2)中国・朝鮮との交易
 1368年に元滅び明となる。また1392年に高麗滅び朝鮮となった。足利義満は、貿易の利益に
着目して、明との国交関係を開き朝貢形式による貿易を行った。足利義満は、遣明船の着津の度
に唐船見物と称して兵庫津に下向したと記録に残っている。李氏朝鮮とも公貿易が始まり、朝鮮
使節の日本に関する当時の記録が残されている。尼崎では三毛作が行われていたという。
また中継貿易を行っていた琉球からも入船していた。応仁の乱で破壊されるまで繁栄していた
兵庫津は、当時の繁栄を示す遺物・遺跡が今も眠っているという。

 こうして見ると、間違った歴史観は、時代背景を考えない無教養が創るという事が良く解る。
歴史観だけではない。様々な背景、各国の歴史的経緯、文化、組織・風土の違い等、様々な事を
考え合わせないと時局観もトンでもない間違いを起こしてしまう。大震災も大切だが国会議員が
皆で、大震災をワイワイいうのもどうか?結局、権力者は、「応仁の乱」の大名達の様に、
自分のことしかない?やはり問題の先送りでEUや米国の様になるしかない?如何なものか。
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室町時代とは? [歴史]

今回の京都散歩で、日本歴史を振り返った時に、私の中で室町時代という時代が、最も漠然としている事に気付かされた。室町時代のことを断片的に語る事は多いし、一般的な認識としては、日本歴史の中でも特に「面白い時代」、といわれているにも関わらず、何か、歴史的説明にスッキリしないものが有る。その原因は、この時代の日本史学的研究不足があるのではないか?
立命館大学文学部準教授・三枝暁子は、「公武統一と室町の王権」という記事で、佐藤進一(史学者・専門は日本中世史)の記事を引用して、戦前の「皇国史観」による言論統制で、足利・室町幕府の研究が停滞したと書いている。

佐藤進一が書いているように、明治、大正期に遡って研究し、日本中世史研究が、今や大幅に進んでいるのだろうか?私は室町時代の歴史が今、どれ程、実証的に解明されているか知らない。しかし日本中世史研究が、簡単に復旧できたとは思えない。なぜなら、膨大な戦争被害、戦後の貧困化、そして価値観の変化によって、日本中世史の研究に大きな空白ができた事。また、現今の「国旗、国歌問題」や、「皇統継承問題」等の論争でも明らかなように、今もって、過去の「皇国史観」を覆す事は、微妙な問題で、簡単にはいかないからだ。今も楠正成は忠臣であり、足利尊氏は逆賊でないと収まりがつかない?

だが、そうすると、蒙古来襲という未曾有の国難から救った、北条時宗(1251-1284)の桁外れの智謀・武勇と、その指導の下に、一糸乱れず戦った御家人たちの「武士の魂」が浮かばれない。
私は、蒙古侵入の粉砕に33年の全生涯をかけた北条時宗や、恩賞が貰えず、戦費を私費で賄い、没落していった鎌倉幕府の御家人たちこそ、真の「武士の魂」をもった人々だったと思う。その後の政治を引継いだ得宗衆(執権北条家縁故)は、財産に執着する亡者に過ぎなかった。

これからは、私の勝手な「室町時代」の新解釈?である。
得宗衆専制の閉塞感を打破するために、後醍醐天皇は、「親政」という破天荒な政策を打ち出したのである。これは、天皇から公家、公家から武家へと政治の実勢が移ってきた流れとは異なるものだが、真の「武士の魂」をさらに拡大育成していくためには、止むを得なかった?

室町時代は、不安定な時代だったようである。「室町」の名称は、足利義満が、京都北小路室町に花の御所を造営したことに因んでいるというが、実は、幕府の政庁も、いろいろと変遷しているようである(三枝暁子・前書)。鎌倉時代に開花した禅宗は、室町時代に、美術、武士の精神、剣道、儒教、茶道、俳句、その他、様々な分野に影響力を及ぼした。また、外国貿易も盛んだったようである。室町時代は、まだまだ解明されていない事が多いから面白い。如何なものか
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京都散歩'11.09最終 [歴史]

DSC08849応仁.JPG先日の京都散歩で、御霊(みたま)神社(上京区)にお参りした。主祭神は崇道天皇(早良親王)である。その神社鳥居の横に、「応仁の乱勃発地」の石碑(写真)があった。昔の境内は御霊の森と呼ばれる広大な境内があり、文正二年(1467)、室町幕府管領・畠山政長ら(東軍)が陣を敷いて、山名方(西軍)と一戦を交えたのが応仁の乱の始まりらしい。戦いは年号が応仁に切替る3月以前の正月だったので由緒書には文正二年とある。室町幕府の跡目争いなどの内紛が、この戦い以降、全国規模の内乱に発展したのである。

主祭神の崇道天皇に関しては、ブログ「閑話2010.10.08」でも取上げたがこの時、参拝したのは、左京区・高野の崇道神社だった。早良親王(750?-785)は、桓武天皇と同腹の皇子であるにも拘らず、藤原種継暗殺事件(延暦4年<785>)の嫌疑をかけられ憤死した。早良親王の怨霊は凄まじく、桓武天皇の妃ら数人の病死や疫病の流行、洪水等が相次ぎ、延暦19年(800年)、崇道天皇と追称された。御霊神社は、平安京遷都の延暦13年(794)に桓武天皇の勅願で創祀された。ちなみに左京区・高野の崇道神社は創祀年代は不明。貞観年間(859-877)ではないか?と神社の栞には書いていた。他にも早良親王の怨霊を鎮める神社が奈良等にあるらしい。

藤原種継暗殺事件を細かく見ると、桓武天皇は、781年に光仁天皇から代替わりして、三年後、暗殺事件の前年(784)に、平城京から長岡京に遷都している。藤原種継は造長岡宮使だった。そのためか否か?延暦13年(794)、たった10年で平安京遷都を敢行している。当初の平安京の設計図は、実際にできた平安京よりもズッと遠大な計画であったという。10年で遷都を繰返したにしては、平安京の計画が立派過ぎないか?長岡京遷都には、東大寺や大安寺などの南都(平城京)寺院の影響力排除の狙いがあったというが、二段構えの遷都計画で、南都寺院の影響力排除を図ったとすれば、桓武天皇はしたたかなお人だった?早良親王も、東大寺の開山・良弁の信任が厚く、なかなかの人物らしかったから、「両雄並び立たず」ということか!
201109081530伏見桃山城.JPG
先日の京都散歩の最後は伏見桃山城(写真)。遠い昔、父と一緒に行った記憶がある。当時、再建したばかりだったと思う。伏見城-Wikipediaによると、1964年(昭和39年)に「伏見桃山城キャッスルランド」が伏見城花畑跡に建設され、模擬天守等が鉄筋コンクリート構造で造られた、とあるから、恐らくその頃だろう。驚いたが閉園されていた。近鉄の経営不振でリストラに会ったらしい。お陰で、散歩による静かなアプローチと観覧が出来、良かった。昔も今も、“栄枯盛衰常ならず” 如何なものか
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三井寺'11.09 [歴史]

昨夜は、仲秋の名月。就寝前に気付いてあわてて表に飛び出した。
月は既に中天に昇り、眺めていると首が疲れる。無風流な月見とあいなった。

芭蕉は、数多くの月見の句を残しているが、三井寺に因んだ句がある。
◎ 三井寺の 門たたかばや 今日の月 元禄四年(1691)、義仲寺・無明庵
月見の句会が催され、招待された人々が酒・肴を持寄っての楽しい宴だった。
盛上がって湖上に舟を漕ぎ出したと言う。湖上から月光に照らされた三井寺の塔頭を
眺め、月に所縁の深い三井寺の門を、今から敲こうか、と詠んだ芭蕉の心境や如何?

この句には、「推敲」という熟語成立の基になった唐代の僧・賈島(かとう)の詩
「鳥は宿る 池中の樹 僧は推す(おす) 月下の門」を踏まえている。この詩は賈島が
弟子になった文人且つ高官・韓愈(かんゆ)の助言で「僧は敲く 月下の門」に修正した。
もう一つは、謡曲・三井寺をも踏まえていると言う。物語は母子生き別れの子探し物。
子どもをかどわかされ、子探しの途中、京都・清水寺で霊夢を授かった駿河国(静岡県)
清見ケ関の母親が、三井寺を訪問する。狂女となった母親が、龍宮から持ち帰ったという
伝説にあやかって名鐘を自分も撞きたいといって撞く。それは丁度、仲秋の満月の夜で、
三井寺では住持が弟子らを連れて月見に出てくる。騒ぎの中、狂女の身元を確かめた上で
住持を頼ってきた子どもが狂女の子であることがわかる。かくして名月所縁の寺として、
謡曲・三井寺にゆかりの人々と心を通わせたいという気持が芭蕉に沸き起こったのでは?

DSC08841弁慶.JPGDSC08839閼伽井屋.JPG三井寺の資料によると、三井寺は、天武天皇の15年(686)、大友皇子の子・村主与多王によって建立された事になっているが、考古学研究などでは、更に古い時代からあったらしい。大津京は667年から、飛鳥浄御原宮へ遷都の672年まで天智天皇の都であったが、それ以前から三井寺の前身寺院はあったという。謡曲・三井寺に出てくる名鐘は、「弁慶の引摺り鐘」(写真)。
他に見ものは、閼伽井屋(あかいや)。格子戸の奥の岩屋から、天智・天武・持統の三帝が御産湯に用いられた冷泉が、今も昏々と湧き出ている。正面上部には、左甚五郎の作という龍の彫刻(写真)がある。先日訪れた三井寺に関しては、まだ書きたい事があるが、何時かまた!
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禅寺縁起等から知る歴史 [歴史]

神社・仏閣にお参りして、その由来書きなどから学ぶことも多い。「門前の小僧 習わぬ経を読む」
ならぬ「参詣の爺 資料から歴史を思う」?今日は禅宗のお寺で頂いた資料を読み解き、私なりの
歴史を整理した。こうすることで、今まで読まなかった、あるいは読んでも気づかなかった事が
色々とあって、面白くてなかなか止められない、とまらない。
私が参詣し、所持している資料を基に作成した大本山の概略を「続きを読む」に掲載した。

日本では、禅宗は、通常、鎌倉時代に興った仏教(鎌倉仏教)に分類される。
しかし、各宗・各派があって、その成立年代は、鎌倉から、南北朝、室町、江戸時代に及ぶ。
禅宗は、栄西禅師(1141-1215)による臨済宗、道元禅師(1200-53)による曹洞宗、
明から来朝した隠元禅師(1592-1673)による黄檗宗、の三宗に分かれている。
臨済宗は14の、曹洞宗には2つの、黄檗宗には1つの、宗派(大本山)がある。
臨済宗の大本山には、例えば、建仁寺派、東福寺派、大徳寺派、妙心寺派、等々がある。
曹洞宗の大本山には、永平寺派、総持寺派、最後の黄檗宗大本山は、万福寺のみである。

禅寺の由来で注目を引くのは、室町時代の足利尊氏によって、大徳寺の五山の地位を一位から
九位に落とした事である。これは大徳寺が、南北朝時代に南朝に加担したためだと考えられる。
足利尊氏が帰依した夢窓疎石(夢窓国師1275-1351)は後醍醐天皇の招きで南禅寺の住持と
なっている。南朝系かと思われたが、尊氏が開基の大本山・天龍寺(1345・創建)の開山
にもなっている。宗教的には中立だった?夢窓疎石は、足利尊氏の北朝方の内紛によって、
尊氏自身も窮地に陥った時に、その調停をして助けてくれた恩義があった。
というか、夢窓疎石は、どんな窮地に陥っても恐れず、素晴らしい解決策を思いつく
真の智慧者であったのだろう。だから尊氏だけでなく多くの帰依者ができたのだろう。

大徳寺が、五山の位を落とされ、また戦乱などで衰退した後、一休さん(1394-1481)に帰依して
大徳寺の復興に力を貸した人々は貴族でも武士でもない、資産家とはいえ、商人であり、芸術家
であった。時代は大きく変化していた。その伝統の中で、豊臣秀吉が、天正10年(1582)
織田信長の葬儀を大徳寺において盛大に行った。そして信長の菩提寺として塔頭寺院・総見院
を建てた。これによって秀吉の政権下にあった各大名が、大徳寺の山内に、こぞって諸院を建立
する事になり、寺勢は一段と高まったという。大徳寺復興の立役者(商人・芸術家)の後継者・
千利休が、秀吉に信長の葬儀を大徳寺で行うように奨めたと思われる。
しかし人間の運命とはわからないもの。大葬儀の7年後、天正17年(1575)、
利休は大徳寺の山門を楼閣に造替する。その時、「自身の木像を楼上に安置」することを
寺から感謝の意味で奨められた。これが千利休の命を縮めた。
利休像は雪駄履きであったために、秀吉から切腹を命じられたのである。如何なものか


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有名寺略縁起と心 [歴史]

京都でも指折りの古くて有名なお寺の略縁起を取上げて、現代人の心の問題を考えた。
有名寺とは、清水寺と東寺である。例によって、略縁起は、「続きを読む」に掲載した。
清水寺の縁起には行叡居士、延鎮上人、坂上田村麻呂という特徴的な三人の人物が登場。
行叡居士は二百年、山野で修業した人。延鎮上人は修業の世界に閉じこもってジッとして
いるのではなく、何かもっと積極的な活動をする事を志し、そこから飛び出した人。そして
坂上田村麻呂は、「俗」の世界で積極的に生きる人。これら「聖」と「俗」の人たちが、
力を合わせて「清水寺」を創造した。従来の官製の寺院ではない。これは新しい平安時代を
切開こうとした民衆の思いを、この三人の人物で表現しているのではなかろうか?

平安時代前期が寺院の建設ラッシュだったのは、仏教が、新時代の建設に無くてはならぬ
精神的な支柱であったからではなかろうか? 昔の仏教は、輝かしい存在だった?
仏教が、人間の真実の生き方を教えてくれたからでは? 空海の真言密教は、
「口を慎み、心を清浄にする事で、その身そのままで仏になる」という教えである。
この教えこそが、始めであり、終わりである。(中間はいろいろあろうが)

平安時代の人々は、現代人の様に科学知識などは乏しかっただろう。
だが、生きる苦労は大変なもので、心は、現代人同様に、様々な悩みを抱えていたろう。
従って、悩みを解決してくれる教えには、大変、積極的に取組んだと思う。
人生の教えとは、所詮、どんな困難、不幸、災いにも負けずに積極的に生きる教え。
昔の人々は、そういう生き方ができる方法を教えてくれれば、どんなによろこんだか!
だって、消極的に生きていれば、いつの間にか生命の危機に陥るのだから。

現代人は、消極的に生きていても、手とり足とりで、生かしてくれる。
だから、仏教の教えなど、馬鹿にされてしまうのである。
ところが、そういう消極的な生き方をしている人々の心の中はどうなるのか?
現代人は、消極的に生きる事によって、心が汚れる事に気付いていない。
そして、心を清浄化する方法も知らず、汚れは酷くなり、汚濁まみれの心になる。
現代の様々な犯罪その他の悲劇・問題の要因は、この汚濁まみれの心である。

この汚濁まみれの心の持主が、大津波の様に、大勢が同期して凶暴な活動をすれば
どんなことになる? こういう人災も天災の一種と考えるしかないのでは?
真人間は、心を清浄に、積極的な姿勢を保ち続けるべきであると思う。如何なものか





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縁起から見える仏教の興亡 [歴史]

私は寺社巡りが好きでよくお参りする。そして必ずといって良い程、由緒書き等を頂く。
昨日の宝福寺縁起でもわかったが、時代によってお寺の興亡があることがわかる。
宝福寺(総社)の場合は平安前半?の創建で、何時頃から廃れたのかは明らかではないが
少なくとも、地方における天台宗の威光は鎌倉時代以降、少し衰えたのではないか?
そして、室町時代に入って、禅宗が興隆したことが伺われるのである。さらにその後、
戦国時代の荒波に揉まれた寺院は、長らく空き家となり、徳川時代に復興された。

同様なことが、他の寺院でにも起こっているのではないか?
そんな観点から、今まで詣でた寺院の中から、適当に選んで調べてみた。
高雄山神護寺(京都)と、再度山大龍寺(兵庫)を選択した。例によって、二つの寺院の
来歴は、「続きを読む」に、略記した。
適当に選んだつもりの二つの寺院だったが、期せずして、場所が中央と地方、創設者が
どちらも和気清麻呂、創建が平安時代の前半、という面白い取り合わせとなった。

宝福寺とあわせて、三つの寺院の縁起を比較検討すると、大体、次ぎの様な事が言える。
1. 創建は、何れも平安時代。宝福寺は日輪大阿闍梨の年代がわからないが、天台宗の後
  だから、やはり平安時代前半の創建?とすれば、三寺院共、平安時代前半の創建。
  どうも、平安時代の前半は、地方も中央も、寺院建設ラッシュ時代だったのでは?
2.平安時代後半の政情不安によって、民衆の心も宗教どころではなくなったのでは?
  戦火や、火災その他の災害もあって、寺院は次第に荒れていったのではないか?
  その中で、高雄山神護寺(京都)だけが、前鎌倉時代に再興(1184)。<真言宗>
  続いて再度山大龍寺(兵庫)、室町時代に再興。(1351)。<真言宗>
  最後に井山宝福寺(岡山)が、室町時代に再興。(1376)。<天台宗→禅宗(臨済)>
3.続く衰退期は、共通的に、戦国時代である。
4.そして、現在の基礎となるのが、徳川時代の復興というのも共通している。
  最も早いのが、やはり中央の京都の神護寺(1623)。
  次が、微差であるが、岡山の宝福寺(1630)。最後が、兵庫の大龍寺(1661-72?)

寺院の縁起というものが、どれ程の信憑性を持つものか?私にはわからない。
しかし、こうして並べて検討してみると、千年を越える時の流れの中で、仏教の興亡を
何がしかは、垣間見る事ができたのではなかろうか?如何なものか

 


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宝福寺縁起 [歴史]

宝福寺駐車場の一隅にある「井山宝福寺の縁起」の案内板について、その説明内容を
ネットで調べてみたが見つからなかったので、今回、忠実に再現してみた。
原文は、「続きを読む」に掲載した。この原文の感想を書いておきたいと思う。

最初に、始祖日輪であるが、千有余年前というと、今だ平安時代の人。西暦900年代?
ネットで出てくる日輪(1272-1359)は池上本門寺系の人で、人違いだと思う。
ネットでは探索できなかった謎の人物。因みに阿闍梨(あじゃり)とはサンスクリットで
「軌範」を意味し、弟子たちの規範となり法を教授する師匠のことだそうである。

次に、天台宗の古刹であったはずの宝福寺が、何故、鈍庵和尚によって、現在の地に伽藍を
建てたのか?900年代?から鈍庵が寺院建立した貞永元年(1232)まで、平安時代から鎌倉
そして室町時代まで、激動の時代を経たのだから、いろいろ紆余曲折が有った事だろう。
兎も角、鈍庵和尚は、円爾弁円(聖一国師)の教えを受けて立派な禅僧になって、故郷に
錦を飾ったのではないか?(鈍庵は、備中国真壁(現在の総社市真壁)出身という)

次に、宝福寺住職としての鈍庵が、時の帝の病気を治した話である。鈍庵は
“新たに壇を築き懇祷した”という。「懇祷」とはどういう意味か?文字通りだと
‘真心を込めて長々と神に訴える’という事になる。“満願の暁に客星が壇前に落ちた”
とは、どういう意味か?「客星」とは、一時的に見える星の事らしいから、ある星が
見えなくなったという事?星の方角が、壇から見て正面にあったという事ではないか?
「この客星が、天皇の病気の源だったが、消えたから大丈夫!」という鈍庵の説明に
元気になる暗示を受けて、天皇は病気が快癒したのではなかろうか?
DSC08823雪舟.JPG
最後に、画聖・雪舟の子どもの頃の逸話に因んだ絵を「仏殿」の中で
見つけたので写真を掲載しておく。最後に少しだけ注文を付けると、
こういう文書には、作成期日を記入すべきである。
この案内板では、画聖雪舟が12歳当時を、540年程前と書いているが、
作成した時期よりも相当年数が経っている?
正確を期すなら作成期日記入を!如何なものか




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成羽美術館・虎次郎と楽山 [歴史]

昨日は、息子の郷里での夏休み最終日。成羽美術館(旧成羽町美術館)に行ってきた。
丁度、生誕130年記念展「綜合デザイナー児島虎次郎~生活の芸術化をめざして」を開催
しており、画家・虎次郎のユニークな側面を知った。期間:7/16(土)~10/10(月)

今回の展示では、これまで紹介される機会の少なかった虎次郎の近代西洋陶器を中心とする
工芸コレクションや彼自身の木工、陶芸、デザインの仕事などが紹介されていた。URL参照
http://www.kibi.ne.jp/~n-museum/design.html
また虎次郎は、大原孫三郎が推進する倉敷の特産品創出の担い手として様々な形で協力、
さらに特産品の制作や指導に当たっていた事が、近年の調査から明らかになったという。
その具体的な形になったモノとして、虎次郎の「楽山園」の門のデザインを例に挙げた。

「楽山園」は、大正2年(1913年)に大原孫三郎氏が、当時、既に果樹園芸界の大家である
小山益太翁(号・楽山1861-1924)を招いて開いた理想的な高級果樹園だったという。
小山楽山は、現代のくだもの王国・岡山を築いた偉大な指導者である。詳しくは以下URL
http://www.rib.okayama-u.ac.jp/HP2010/profile/info_koyama.html

大原孫三郎氏は、小山氏の功績を記念して、果樹園の名前を楽山園と改称したという。
虎次郎の「楽山園」の門のデザインは、その時・大正13年(1924)に制作された。
大原孫三郎が推進する倉敷の特産品創出という大仕事には、まさに人の心が籠っていた。
素晴らしい才能を持った人々が、金のためではなく、素晴らしい日本の未来のために
互いに思いやり、助け合って、立場立場の仕事をやり遂げ、成果を上げたのである。

最後に、小山楽山を簡単に紹介しておこう。詳しくは、以下のURL参照
http://e-h.mo-blog.jp/kurasiki/2010/03/post_472d.html
文久元年九月(1861)岡山県磐梨郡稗田村(現・赤磐市稗田)の代々名主役を務める
精農家に生まれた。農業果樹栽培に志した楽山は、裏山を切開き、交配・病害虫防除等の
技術開発を独学にて行い、桃 葡萄 梨 柿 等々の果樹栽培の振興に専念した。
発明した六液という石油侵出法による除虫菊の石油乳剤は、優れた農薬として明治から
昭和初期まで全国的に利用されたという。大原孫三郎は、大正三年(1914)、小山益太を
大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)の創立時に園芸部・指導者として
招いた。益太の門下生で大久保重五郎氏は日本の産地で中心品種白桃を創生した。
大正十三年七月(1924)、当初の園名「名田山果樹園」園内で逝去された。如何なものか
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騒がしい日 [歴史]

世の中は騒がしい。英国では暴動騒ぎ。株は世界同時安で、日経平均は9千円台割れ。
民主党の代表選出馬の噂も喧しい。野田佳彦、小沢一郎、馬淵澄夫、菅直人、前原誠司、
仙谷由人、小沢鋭仁、海江田万里、鹿野道彦などの名前が取り沙汰されている。
政権交代から、丸二年、今の内に総理や、大臣になっておかないと当分なれない?

日本社会は、タヌキと狐の化かし合いの場であり、真面目な人間はバカを見る?
書類の整理をしていたら、どこかの研究会で入手した坂井三郎氏の資料が出てきた。
著書の抜粋で、「下士官から見た日本海軍」と題されているA42頁の資料である。
そこには、当時海軍航空本部技術部長だった山本五十六少将が、精神偏重に目が眩み、
部下の進言する技術開発を軽視している様が、生々しく記述されていた。
山本五十六も、技術開発が重要なこと位わかっているだろうが、個人と社会との相克で
自己の出世を望めば、意に沿わない事も、自分を殺して、反対しなければならない。
当時、飛行機を重視していなかった日本軍では、個人と社会との相克で自分を殺して、
自己の出世を望んだ人間か、精神偏重主義の人間が、日本軍の主導権を握ったのでは?

資料は、また、アメリカ軍と日本軍の違いをあからさまに指摘していた。
アメリカ軍は一人の搭乗員でも不時着すれば、飛行艇や潜水艦やで全力出して救助する。
日本は救助なんか来ない。「捕虜になるな、やられたら体当たりしろ」、正に使い捨て。

第二次世界大戦後の日本社会は、精神偏重主義を訂正しようとした。しかし、今度は
科学技術偏重主義になったのではないか?その結果が、東日本大震災による原発被害の
拡大につながった? これも人間の使い捨てが背景にある?その根本的な問題は何か?
私は、対立する意見を持つもの同志の対話・議論をしない日本人の体質にあると思う。
資料における戦前の日本海軍の実態からも明らかであるが、意見を異にするグループは
派閥をなし、交流を妨げている。中根千枝の「タテ社会の人間関係」という風俗・習慣
を、継続する限り、どうにもならない?大連合などという「大政翼賛会」の様なものは
風俗・習慣を破るのではなく、増々、集団が烏合の衆と化すだけであろう。
口で国民のことを考えている様な政治家でも、国会が党利・党略の場である限り、
国民は、使い捨てと考えられているのである。そして、国民も、人は使い捨てでも
自分達だけは補償の分け前に与かろうと、税金分捕り合戦で頑張るのである。
所詮、日本社会に限らず、社会は化かし合いの場?社会でまともに生き残るためには
歴戦の撃墜王・坂井三郎氏の如く、不死身or不死鳥になるのが理想? 如何なものか
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