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宝福寺縁起 [歴史]

宝福寺駐車場の一隅にある「井山宝福寺の縁起」の案内板について、その説明内容を
ネットで調べてみたが見つからなかったので、今回、忠実に再現してみた。
原文は、「続きを読む」に掲載した。この原文の感想を書いておきたいと思う。

最初に、始祖日輪であるが、千有余年前というと、今だ平安時代の人。西暦900年代?
ネットで出てくる日輪(1272-1359)は池上本門寺系の人で、人違いだと思う。
ネットでは探索できなかった謎の人物。因みに阿闍梨(あじゃり)とはサンスクリットで
「軌範」を意味し、弟子たちの規範となり法を教授する師匠のことだそうである。

次に、天台宗の古刹であったはずの宝福寺が、何故、鈍庵和尚によって、現在の地に伽藍を
建てたのか?900年代?から鈍庵が寺院建立した貞永元年(1232)まで、平安時代から鎌倉
そして室町時代まで、激動の時代を経たのだから、いろいろ紆余曲折が有った事だろう。
兎も角、鈍庵和尚は、円爾弁円(聖一国師)の教えを受けて立派な禅僧になって、故郷に
錦を飾ったのではないか?(鈍庵は、備中国真壁(現在の総社市真壁)出身という)

次に、宝福寺住職としての鈍庵が、時の帝の病気を治した話である。鈍庵は
“新たに壇を築き懇祷した”という。「懇祷」とはどういう意味か?文字通りだと
‘真心を込めて長々と神に訴える’という事になる。“満願の暁に客星が壇前に落ちた”
とは、どういう意味か?「客星」とは、一時的に見える星の事らしいから、ある星が
見えなくなったという事?星の方角が、壇から見て正面にあったという事ではないか?
「この客星が、天皇の病気の源だったが、消えたから大丈夫!」という鈍庵の説明に
元気になる暗示を受けて、天皇は病気が快癒したのではなかろうか?
DSC08823雪舟.JPG
最後に、画聖・雪舟の子どもの頃の逸話に因んだ絵を「仏殿」の中で
見つけたので写真を掲載しておく。最後に少しだけ注文を付けると、
こういう文書には、作成期日を記入すべきである。
この案内板では、画聖雪舟が12歳当時を、540年程前と書いているが、
作成した時期よりも相当年数が経っている?
正確を期すなら作成期日記入を!如何なものか




井山宝福寺の縁起
 当山は、もと天台宗の古刹で、千有余年前の古道場であり、創立の始祖は日輪大阿闍梨。
 後白河天皇の御代・貞永元年(1232)に、鈍庵和尚が新たに現在の地に伽藍を建てたものが宝福寺。
 当時、栄西禅師が臨済禅を支那から将来され、数年後九条道家の願いによって、円爾弁円(聖一国師)が東福寺に出世され、禅風は天下に普及しました。この時、鈍庵も上洛して弁円について修業し、ついに井山を禅林に改宗されました。
 時の御帝四条天皇のご病気平癒の加持を命ぜられた鈍庵は、新たに壇を築き懇祷したところ、満願の暁に客星が、壇前に落ちてきた。その壇を礼星壇と名づけて、落星の地に井戸を掘り千尺井戸と呼んでいる。天皇はたちまちお元気になられ、ご満足の意により、近郷の庄園三千石を賜り、寺を勅願寺とされ、特に護国の二字を加えて、宝福護国寺とされ、国家鎮護を祈るよう御宣旨いただきました。
 山内で一番古い建物といわれる三重塔(国指定重要文化財)は、寺伝によれば、弘長二年(1262)北条時頼公が巡国の際、当山に立ち寄り建立されたと伝えられているが、昭和44年(1969)解体修理され、永和二年(1376)に建立されたものと記録されている。 
 今からおよそ540年程前に、画聖雪舟が12歳で当山に入門し修業の際、絵ばかり書いてその業を怠り、住職が戒めのため本堂の柱に縛りつけたところ、落ちる涙で板敷にねずみの絵を描き、そのねずみが生きているように見えたので、住職はすっかり感心して、絵の修業を許したという事です。
 たまたま天正三年(1575)の備中兵乱にあい、一山は丸焼けとなり、わずかに三重塔、般若院、満足庵が残っただけで、以後永らく無住となり、寺は荒廃の極みに至りました。寛永七年(1630)徳川氏から朱印百石を受領し、歴代の住職は再建に百方奔走したため、旧例によって国家鎮護の官寺となり、漸次、藍を再興して今日に至っており、臨済宗東福寺派の中本山、七堂伽藍完備の巨刹であります。
                           総社市
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