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縁起から見える仏教の興亡 [歴史]

私は寺社巡りが好きでよくお参りする。そして必ずといって良い程、由緒書き等を頂く。
昨日の宝福寺縁起でもわかったが、時代によってお寺の興亡があることがわかる。
宝福寺(総社)の場合は平安前半?の創建で、何時頃から廃れたのかは明らかではないが
少なくとも、地方における天台宗の威光は鎌倉時代以降、少し衰えたのではないか?
そして、室町時代に入って、禅宗が興隆したことが伺われるのである。さらにその後、
戦国時代の荒波に揉まれた寺院は、長らく空き家となり、徳川時代に復興された。

同様なことが、他の寺院でにも起こっているのではないか?
そんな観点から、今まで詣でた寺院の中から、適当に選んで調べてみた。
高雄山神護寺(京都)と、再度山大龍寺(兵庫)を選択した。例によって、二つの寺院の
来歴は、「続きを読む」に、略記した。
適当に選んだつもりの二つの寺院だったが、期せずして、場所が中央と地方、創設者が
どちらも和気清麻呂、創建が平安時代の前半、という面白い取り合わせとなった。

宝福寺とあわせて、三つの寺院の縁起を比較検討すると、大体、次ぎの様な事が言える。
1. 創建は、何れも平安時代。宝福寺は日輪大阿闍梨の年代がわからないが、天台宗の後
  だから、やはり平安時代前半の創建?とすれば、三寺院共、平安時代前半の創建。
  どうも、平安時代の前半は、地方も中央も、寺院建設ラッシュ時代だったのでは?
2.平安時代後半の政情不安によって、民衆の心も宗教どころではなくなったのでは?
  戦火や、火災その他の災害もあって、寺院は次第に荒れていったのではないか?
  その中で、高雄山神護寺(京都)だけが、前鎌倉時代に再興(1184)。<真言宗>
  続いて再度山大龍寺(兵庫)、室町時代に再興。(1351)。<真言宗>
  最後に井山宝福寺(岡山)が、室町時代に再興。(1376)。<天台宗→禅宗(臨済)>
3.続く衰退期は、共通的に、戦国時代である。
4.そして、現在の基礎となるのが、徳川時代の復興というのも共通している。
  最も早いのが、やはり中央の京都の神護寺(1623)。
  次が、微差であるが、岡山の宝福寺(1630)。最後が、兵庫の大龍寺(1661-72?)

寺院の縁起というものが、どれ程の信憑性を持つものか?私にはわからない。
しかし、こうして並べて検討してみると、千年を越える時の流れの中で、仏教の興亡を
何がしかは、垣間見る事ができたのではなかろうか?如何なものか

 


高雄山神護寺(京都)
平安京造営の最高責任者だった和気清麻呂が建てた愛宕五坊の一つ・通称「高雄山寺」を
天長元年(824)、高雄山寺に併合。和気一族は最澄、空海を寺に招いて活躍の場とした。
平安時代、二度の災害により殆どの堂塔を消失。寿永三年(1184)文覚上人により再興。
後白河法皇の勅許を得、また源頼朝の援助もあって、往年以上の復興を見た。
応仁の乱で再び戦火を受け、大師堂を残し消失したが、元和九年(1623)龍厳上人の時
楼門、金堂(今の毘沙門堂)、五大堂、鐘楼を再興。以下略

再度山大龍寺(兵庫)
神護景雲二年(768)称徳天皇の勅を受けた和気清麻呂は、寺塔建立の霊地探索のために
摂津国の山中に居た時、僧道鏡の刺客に暗殺される所、大蛇が現れて難を逃れた。大蛇の
消えた後に、「聖如意輪観世音菩薩」が立っておられた。霊験を感じ、そこを寺塔建立の
霊地として、建立した寺の名を「大龍寺」という。
延暦23年(804)、入唐される空海(弘法大師)は、旅の所願成就を大龍寺のご本尊に
祈願された。その甲斐あって、唐の長安で青龍寺の恵果和尚に秘密の大法を授けられ
大同元年(806)に無事帰国。帰朝報告奏上の為の上京途上、再び大龍寺に参籠されて
本尊に報恩謝徳のために、七日間秘法を勧修された。「再度山」は此処から生れた。
鎌倉時代、度重なる戦火により伽藍を消失。観応二年:北朝年号(1351)赤松円心が
善妙上人を山主として中興し旧観を取り戻したが、戦乱が続き再び荒廃した。
寛文年間(1661-72)唐招提寺の実祐上人が尼崎城主・光録居士の協力を受けて再興に
努力された。
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