SSブログ

大津-山科'11.09 [散歩]

2011-09-05付けブログの続編。昼食をとった品川屋は、琵琶湖疏水のすぐ近くだった。
そこから疏水の取水口まで1~2分。取水口から山科近くまで、琵琶湖散歩を楽しんだ。
実際は途中で三井寺にお参りしたが、本ブログでは省略した。写真を列挙する。
最初の写真が取水口。新三保が崎橋から撮った。水位観測所、旧三高漕艇部施設等が見える。
次が第一疏水揚水機場。3枚目は、疏水の柵(写真)。
DSC08831取水.JPGDSC08832揚水機場.JPGDSC08833柵.JPG





4枚目が三保が崎橋から京阪石山坂本本線の鉄橋と北国橋を望む。次の二枚の写真は「大津絵の道」に描かれていた大津絵。
DSC08834三保崎橋.JPGDSC08836大津絵2.JPGDSC08835大津絵.JPG
そして三井寺参詣後の小関越えの石碑。
DSC08843小関越.JPG

峠を越えて最初に目に付く設備が8枚目の写真:第1トンネル西口洞門、9枚目;緊急遮断ゲート、10枚目:藤尾橋から測水橋、11枚目:四ノ宮舟溜り・諸羽疏水入口
DSC08844第1トンネル西口洞門.JPGDSC08845緊急遮断ゲート.JPG
DSC08846藤尾橋から測水橋.JPGDSC08847四ノ宮舟溜りと諸羽疏水入口.JPG


続きを読む


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

大津'11.09 [散歩]

DSC08827大津事件.JPG今日は、大津に行き、JR大津駅から真っ直ぐ琵琶湖に向かって歩き、旧東海道と交差する所から、今度は琵琶湖疏水の取水口に向かって歩いた。その道路沿いに、歩いていると、道路の左側に何やら石碑(写真:露国皇太子遭難地)が建っている。明治24年(1891)、帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵巡査がサーベルで切りつけた有名な大津事件の発端となった場所という。皇太子や接待などの貴人は人力車に乗っていたというが、幅の狭い道で、警護は難しかったろう。道幅は現在も当時と変わっていないそうである。まして警護中の巡査が切りつけたというのだから、たまったものではない。

そこを通り過ぎると、少し琵琶湖寄りの今度は商店街通りに切り替えた。途中に大津祭曳山展示館がある。そこの管理人(女性)が、大変熱心に大津の曳山の歴史を語ってくれた。大部分わすれたが、印象に残ったことが2つあった。1つは、大津のからくりを導入した曳山は、京都の山鉾に次いで古く、高山の山車は、大津を見習ったものということである。江戸から京都への五十三次の最後の宿場として、琵琶湖水運の要の港町としての繁栄ぶりがしのばれる。もう1つは、月宮殿山という山車を飾る毛綴織(タペストリー)のことである。16世紀にベルギーのブリュッセルで織られたものだという。この関連の作品が、京都祇園祭の鯉山鉾、鶏鉾などに分かれて使用されているという。どのような伝来ルートだったかは明らかではないそうだが、説明では、伊達正宗が慶長年間に遣欧使節として派遣した支倉常長が持ち帰ったものというのが面白かった。常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵されており、平成13年(2001年)に国宝に指定されているという。当時、超高価な品物だったはずだから、資料を当たれば明確に是非が分かるはず。今も由来が明らかでないというのは、支倉常長説が、不利なのではなかろうか?DSC08830品川.JPG

昼食は、京阪石山坂本線の三井寺駅前にある近江牛・品川亭で、近江牛丼を頂いた。写真は品川亭の外見。右側がお惣菜を販売し、食事処は、左側から入る。
遅くなったので、今日はここまで。
nice!(2)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

散歩の変容に思う [散歩]

今日は曇天だったが、時折雲が切れて、強烈な熱射光線に曝される散歩だった。
昨日とは異なった散歩コースだったが、昨日見つからなかった稲の花を見つけた。稲の花の
ひとつひとつはたった2時間しか咲いていないという。(ブログ・散歩'09_0827参照)
昨年(2010)は稲の花に注意が届かなかった様だ。毎日、散歩に明け暮れているが、どうも
散歩の変化に気付いた。その変化を変容(transformation)と捉えてみた。

タイトルを“散歩”の語句で検索抽出したブログ(4年以上前から作成)を基に、
我が散歩の変容について考察した。ヒットした検索結果は、合計85件。年別には
2007:11件、2008:17件、2009:40件、2010:7件、2011:10件。
私のブログは二つ(まどか[2007/2008]、円卓[2009-2011])に分かれている。
ブログの[散歩]分類では、まどか・244件に対して、円卓・56件。
まどかの[散歩]分類は、検索結果と隔たりがある。まどかでは、分類項目2つ選択可能
だった為、半数くらいは散歩にも分類していた事が、大きな原因であると思われる。

さて検索結果のブログを古い順に読み返してみた。最初はいわゆる散歩話。そこから
わかる事は、散歩をいかに楽しむか?明日もまた散歩を継続する力を得たいという気持。
それが、2008年になると少し、遠出(近場が多いが)の話が、多くなってきた。
近所の散歩話ではタネが尽きてしまうからだ。それはまた、近所の散歩に多少、魅力が
無くなってきたことを意味するのではないか?そして、それは散歩によって体力が増進。
散歩だけでは、体力的に飽き足りなくなっていると思われる。その事を窺わせるのが、
2008-12-18のブログ「散歩と体力」である。散歩になれて「省エネ歩行」になることを
赤ちゃんが、寒いからと言って靴下を履かせると転ぶ話と対比させて記述している。
2009年に入り、それでもカメラを使ったりして、何とか散歩を盛り立てている。
そして06-17のブログ「魔法の運動・2」から、おッかなビックリのスロージョギングを開始。
さらに09-30のブログ「散歩と坐禅」では、散歩を精神的な面で捉えようとしている。
今日までの経過から、単純な健康作りの散歩が、「省エネ歩行」の習得による物足らなさ
を補う為に、スロージョギングによる体力強化と精神力強化との両方を狙っていた事が解る。

この様な私の散歩における変容の狙いは間違っていないとは思うが、今現在を省みると
体力強化の方にぶれ過ぎているのでは?と反省する。スロージョギング中も精神統一可能か?
研究課題である。また散歩も程々にして、家事手伝い等、妻の喜ぶような事をするのも
精神力強化に大切な要素である。まだまだ散歩の変容は必要? 如何なものか
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

散歩は自力本願?他力本願? [散歩]

今日の散歩は、梅雨の晴間で日差しも強かったが、冷夏を心配される季候だからか、
気温は、そんなに上がらず、風もあって、スロージョギングでも凌ぎやすかった。
スロージョギングについては、2009-06-16のブログ「魔法の運動」で取上げた。
その翌日から実践し始め、途中中断なども含めて、はや、二年も過ぎてしまった。
この二年間でスロージョギングを実施した日は、合計で、474日。 その内訳は
◎ 2009.6.17~年末:71日、 2010年:267日、 2011年始~6.16まで:136日
通算実施率は、6割4分9厘
2009年の8月下旬~11月中旬まで休止していた割には良く続いていると自画自賛!

さて、私にとって散歩、スロージョギングは、健康のための自力本願?それとも
健康である事に対する感謝の気持を表す行為であり、本質は他力本願なのか?
今日の散歩途中に、ふと、そんな疑問が、頭に浮かんだ。

散歩等を振り返ってみると、最初は、単純に健康に良いというからやってみよう!
というノリというか、発想であり、自力本願と言っても、差し支えないと思う。
但し本来、自力本願は相当できる人の道であり、私等に所詮、自力本願は無理だろう。
ところで、「他力本願」とは、どういうことか? 私なりの考えを簡潔に書いておく。
「他力本願」とは、阿弥陀様の本願(高度な学徳、修行の出来ない凡夫を救う)の心が
全ての衆生の心に届いている、即ち人間は阿弥陀様の尊いお心を頂いている事を信じる
ことである。阿弥陀様の目を通して、この世の中を見る事である。

二年続いたスロージョギングや、当地に帰って丸9年続いている散歩等を振り返った時
私の様に飽きっぽい性格の人間が、自力で出来ていると考えるのは不遜の極みではないか?
やはり阿弥陀様のお心が、私の心に届けられていて、そのお陰で続いているのではないか?
今日迄、はっきりと意識していたわけではないが、何時頃からか、自力で継続に努力する
というよりは、継続できる事に感謝する気持が強くなって来た事は確かである。
私の散歩やスロージョギング、筋トレなどが、「他力本願」と言い切れる程に、私の信心は
堅固なものではないが、これからも、我が内なる弥陀の心を探検しながら生きていきたい。
阿弥陀様の目を通して世の中を見た、と確信出来る体験をしてみたい。如何なものか
nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

兵庫津の道散歩 [散歩]

今日は、午前中から散歩に出た。神戸の観光ガイドマップには、港・市街地観光用、灘の酒蔵
観光用、兵庫津の道観光用、北野観光用、六甲山観光用、有馬温泉観光用、須磨観光用、
西神戸観光用などが取り揃えられている。インターネットは:http://www.feel-kobe.jp/
今回は「兵庫津の道」を散策した。残念ながら、「兵庫津の道」に関して私の知識は皆無に等しく、
マップの読み方も難しい。目標を定めてもなかなか!あてどない散歩となった。
201105261056兵庫大仏.jpg
最初に漂着したのは、“兵庫大仏”。明治初年の排仏毀釈により、
仏教界は壊滅的状況?それを兵庫の豪商・南条荘兵衛の発願によって、
巨大な盧遮那仏(写真)が建立されたという。以来、奈良、鎌倉と並び、
日本三大佛に数えられているという?そのお陰か、その後、この兵庫一帯は
大いに栄えて神戸一の繁華街を誇ったという。
残念ながら、その当時のものは、昭和19年5月、金属回収令によって
元の金属に戻された。今日の「おひさま」でも、なべ・釜などと一緒に、
様々な思い出のある陽子(井上真央)の自転車も供出されて、悲しい別れをしていた。
現在のものは平成三年(1991)47年ぶりに再建された。

次は一遍上人(1239-1289)入寂の地。上人は法然-証空-性達と浄土宗西山流を継いだ。
正応二年(1289) 兵庫の観音堂(現・真光寺)で安らかに入寂されたという。
一遍上人の詠んだ歌が、廟所の説明版に書かれていた。
◎ 旅ごろも 木の根かやの根 いづくにか 身の捨てられぬ ところあるべき
兵庫津は、平の清盛によって繁栄したというよりは、元々、瀬戸内海でも屈指の良港として
栄え、そこに清盛が目をつけたという方が正解ではないだろうか?平家一門が滅んでから
既に百年を経過した頃に一遍上人のような人が最終的な布教の地に選んだのだから、
兵庫津の繁栄は衰えていなかったと言うべきだろう。

最後のスポットは平経俊(たいらつねとし)。一の谷の合戦で戦いに利あらずと、西出の浜へと
落ち延びたが、源範頼の郎党・名和太郎に追われ、組み打ちとなったが当地で落命した。
時に寿永3年(1184)2月7日、18歳だった。弟の敦盛を討った熊谷次郎直実は、それがもとで
後に法然を頼り出家した。その辺りが当時の作家の魂を揺すり、平家物語のハイライトシーンと
なって、能、謡曲、歌舞伎にもなって敦盛は超有名人だが、兄の経俊は忘れ去られた。
経俊を討った名和太郎は、教養もない田舎武者で絵にならなかったのか? 如何なものか
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

親戚訪問 [散歩]

今日は、昔御世話になったおば宅を訪問した。
90歳を過ぎても、久しぶりに会った私のことも即座に思い出し、いろいろとお話した。
聞いてみると、生まれは大正8年、「おひさま」の陽子よりも3歳年上である。
長生きの秘訣を伺ったら、おば曰く、「前向きな気持ち」とのことである。
私などは、ついつい消極的な言葉を吐くことが多い。確かにおばさんはすべて前向きだ。
今はもう、足がお悪くて歩く事はできないが、決して愚痴などはこぼさない。
足が悪くなった事に関する話題も、何度もリハビリで歩けるように回復した成功体験だけ。
だから、私が思うに、彼女は歩けなくなったという絶望感はない?
また歩けるようになるという希望にも拘らないのではないか?と推測してみたりした。

茨木のり子の詩集『倚りかからず』の最後の詩「ある一行」で、
“絶望といい希望といってもたかが知れている
うつろなることでは二つともに同じ
そんなものに足をとられず 淡々と生きて行け!・・・・”
と、謳ったが、その言葉は、まさにおばの思考とピタリと重なる。

「歩けなくなった!」と絶望する必要もなければ、「歩かなければ!」と焦る事もない?
おばの心中に歩けない苦しさがないとは言えないかもしれない。
「年をとるということは、大勢の皆さんのお世話になるという事だと分りました」という
言葉は、大変に含蓄のある言葉であり、深く深く噛み締めてみる言葉だと思う。
そういう「苦」を、消極的に受け止めず、前向きに生きるところが素晴らしい!

帰路は、久しぶりに阪急電車に乗った。
緑の色も濃い六甲山や摩耶山が眩しく、懐かしく、山野を駆け巡った十代の頃を思い出した。
夜は旧友と楽しく歓談。夜の10時前には別れたが、街に活気がないのが気になった。
そういえば、西宮からの阪急の特急も空いていた。平日の午後だからだろうか?
私は、昔と違って、今の静かな街の方が好ましい。如何なものか
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

弥生散歩2011 [散歩]

社会が不安定で、のんびりした気分になれないからか、最近は散歩の話題が減少した。
しかし、私のような年寄りが気を揉んでも仕方がないので、のんびり散歩の話である。
散歩の話題は少ないが、散歩は、相変わらず継続している。
最近では、一週間で10万歩というのも少なくない。
スロージョギングがある程度、定着してきたからかも知れない。
相変わらず、膝には違和感がある。コラーゲンの不足か?(^^)
201103291243早鯉.jpg
写真は、今日の散歩の途中で撮ったもの。
(決して過去の写真ではない。)
鯉のぼりは、何時頃から飾るのだろうか?
特に、決まりがある訳でもなさそうだが、4月以降か?
今のところ他では見かけなかった。結構、気の早いお宅?
今日は、風が強かったので、鯉さんたち気持ち良さそう?

午後から曇りという天気予報だったが、日差しは薄雲を通しても強く、影がくっきりと出た。
スロージョギングで汗ばんだので薄手のフリースの上着を脱いだが、下着とポロシャツでは
少し寒さを感じたから、恐らく、気温は、最高でも15℃に達していなかった?
上着を着ているときには、風の冷たさを感じなかったが、やはり、まだ風が冷たい?
今日の様に早春から陽春へと移ろう微妙な瞬間を体感できたことは、深いよろこびである。

芭蕉の春の句に、次のような句がある。
◎ はれ物に さわる柳の しなへ哉  元禄七年春

はれ物という現実的なものを用いた意図は、春の柳のしなやかさを強調するためだと思う。
その意図は十分に達しているが、そのはれ物とは、どんなはれ物なのか?推理してみた。
そして、その春の柳が、早春から陽春へと移ろう頃の柳と解すれば、
はれ物は、ついこの間まで悩まされていた“しもやけ”では?と具体的に推理したのである。
早春だと、風の冷たさで柳のしなやかさを思えない?陽春だと、はれ物に現実味が乏しい?
実は私は、この冬 “しもやけ”が悪化して随分、悩まされたのだ。まだアザが残っている。
そういう実体験から、この句は、今頃の気候でないといけないのでは?と思う。
今頃は、早春の歓びと陽春の歓びに挟まれて地味な時期だが、それもまた素晴らしい!
nice!(2)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

旅散歩2011.02 [散歩]

この処、急に春めいてきた。このまま暖かくなるわけでもなかろうが体が弛む。
体が弛んでも、心はなかなか和らがない。老老介助?
DSC08674淡路島.JPG明石の山奥から淡路島を望んだ写真である。この写真を撮るためにスロージョギングで坂道を上り下りして、散歩の歩数を稼いだ。
老老介助は体が基本。鍛えねば!
右側の上の方に薄っすらと明石大橋の橋脚が写っているのが写真を拡大したら見えるだろうか?夕方、写したから瀬戸内海がはっきり区別できない?薄墨色の二重の山が淡路島。明石側との間に入り江の様に横たわっているのが、瀬戸内海。写真の中央から右は、尾道の海のようだ。

翌日は、墓参りと古い知人(一巡年上)との再会だった。いろいろ病気を経験されたらしいが、血色もよく、お元気そうで何よりだった。性格の明るい方で、それが、元気の秘密のようだ。お会いした日は、肺に水の溜まる病気の完治を医者から知らされた日で、私との再会と二重の歓びとして本当に良い日だったと、喜んで頂いた。よろこびを共にできる事ほど嬉しいことはない。

後は、自分自身の楽しみのための京都夫婦散歩だった。
今回は、臨済宗(禅宗)総本山・妙心寺に参拝した。動機は、京都駅の案内所で見た
「第45回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 ~戦国・姫君と武将たち~」だった。
実際には、12箇所あったが、一度も行ったことがなかった「妙心寺」に決めた。
京都駅からバス(26番)で、妙心寺で下りて北門から入った。バスは時間がかかるが1日乗車券
500円で何度でも乗れるのが最高である。
妙心寺の境内を散策していて、一人で散歩している方と出会い、夫婦での写真を撮ってもらった。その時に感想を話してくれたが、「妙心寺の境内には驚いた。全くの別世界だ。京都の町中の喧騒が嘘のようだ!」という。聴けば京都の人というではないか!大徳寺の時にも同じような感想を持ったが、妙心寺は大徳寺以上の広大な敷地であり、建ち並ぶ多くの巨大な塔頭寺院は壮観だった。公開・非公開を含めて、文化財に関しては、又の機会もあるかと思う。DSC08695御香宮ソテツ.JPG

最後の写真は、御香宮(伏見)のソテツ
御香宮の主祭神は神功皇后。清和天皇の御世に香りのよい水が湧き出たことから「御香宮」の名を賜ったと言う。伏見の七名水の一つである。ソテツの樹齢は不明としながらも、400年の可能性を示唆している。京都市登録天然記念物
nice!(4)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

warp散歩の1日・② [散歩]

昨日のブログは「真備町ふるさと歴史館」の北側にある岡田大池に浮かんでいたキンクロハジロの事まで
話した。この鳥の観察がてら、池の周りをぶらぶら散歩した。歴史館や大池の東隣にある岡田小学校は
岡田藩・伊東家の陣屋跡らしい。歴史館から池の東を北に進むと、途中で出島に降りる処がある。弁天島?
その下り口に近辺に関する観光案内板がある。その辺りは横溝正史が特にお気に入りの散歩コースだった
らしい。案内板から正史の疎開先の住宅が近くにあることがわかった。時刻は既に9時半頃。
以前、車で訪ねた時は休みだった正史の疎開先を訪ねて引き返せば、歴史館の開館時刻を過ぎると考え
エイ!ままよ!と再びwarp。

(写真は、疎開先の手前にある「濃茶のほこら」、疎開先外観、疎開先屋内)
201102060957濃茶.jpg201102060959疎開宅.jpg201102061011宅内.jpg




疎開宅で親切な係りのおばさんにお茶をよばれ、ぶらぶら「真備町ふるさと歴史館」に引き返す。
歴史館では係りの方(80歳?)からいろいろご親切にしていただいたが、小原七郎左衛門の詳しい経緯は
分らなかった。また改めて調査したい。
今回、疎開宅や歴史館を訪問して気づいた事がたくさんあった。父は彼の4歳年少だが、同じ世代?
亡くなったのは父が半年早かった。横溝正史(明治35年<1902> -昭和56年<1981>)を、
実は私はほとんど何も知らなかったのだ。

今回のwarp散歩で、横溝作品のテレビドラマの時代感覚が、現代を軸にすると可笑しい原因が分った。
小説とドラマの制作年代が約30年前後ずれていた。昭和39年生まれの作家・岩井志摩子が、「横溝正史に
捧げる新世紀からの手紙」に、岡山生れの同年代人は横溝正史と角川書店は「ぼっけえカッコイイもん」と
刷り込まれたと書いている。私の長女は昭和43年生まれで、岩井志摩子の4歳年下だが、同世代である。
この奇妙な一致。親父の時代と子どもの時代とが同期していて、丁度ハザマの私の時代には横溝正史の
姿は薄かった。何処かにwarpしていたということなのか?

現代は親子の断絶と言うが、親子は元々、構造的に互いに別世界にwarpして生きているのではないか?
三世代による相互刺激は、各世代が、別次元に生きている事に気付き、相互に別次元に興味を感じられる
warpを促す重要な役割を担っているのではなかろうか?如何なものか。
nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

warp散歩の1日 [散歩]

今日は、時空を縦横に旅する超光速航法(ワープ航法)で楽しんだ一日だった。
今朝は、妻が、真備町での市の催物の手伝いに朝早くから行くというので送って行った。
当初は、帰路も車で帰るつもりだったが、その場になって急に散歩しながらの帰宅に変更。
井原鉄道の吉備真備駅の近くであることを頭に入れて、地図も持たずに歩き出した。

最初は、単に井原電鉄に沿って歩き、川辺宿まで行き、自転車と人専用の川辺橋で高梁川を
渡って清音駅まで歩き、倉敷までJRで、また歩いて帰宅する予定だった。約3-4時間、8時30分
から歩き出したから午後2時頃までには帰宅できるだろうと考えていた。しかし急に趣のある道
を選んで北東に進んだ。まさにwarpした。ワープ(warp)とは、本来は、それる、ひがむ等という
意味である。ひがんでそれた訳ではない。多少時間はかかっても、珍しい所を歩くのだから
日常的な仕事の事は忘れて、散歩を楽しもうと考えた。

散歩途中、とある公園(子ども公園、岡田郡会所跡)で上原井領(かんばらいりょう)用水に関する
説明板を発見。富原の庄屋小原七郎左衛門が、死を賭して他領の農民のために用水路を開き
そのために自領の殿さんから斬殺の刑に処せられたと書かれていた。自領の農民のために、
殿さんに直訴して死罪を被った人は多いが、他領の農民のために、命を賭けた話を私は、
寡聞にして知らなかった。800px-Aythya-fuligula_Tufted-Duck.jpg

この事件をもっと詳しく知りたいと思った。それでフト途中で「真備町
ふるさと歴史館」の道標を見たことを思い出し、訪ねた。残念ながら
開館は10時から。まだ一時間近くある。なかなか趣のある場所で、
大きな池(岡田池)もあった。かもなど、冬の渡り鳥が羽を休めて
いた。よく見ると別の一群が居た。私はわからなかったので散歩途中の土地の人に尋ねたが
分らず、後で市立自然史博物館に寄って調べた。「倉敷の野鳥」という小冊子でわかった。
キンクロハジロ(金黒羽白)と呼ぶらしいが、詳しい事は分からない。朝日に映えて白と黒の
コントラストが強烈な印象を与えた。あまり知られていないのは、当地は中継地に過ぎない
からではないか?(写真参照・出展:キンクロハジロのウィキペディア)

さて、この後、いよいよ、時空を縦横に行き交うwarp散歩へといざなわれる。
nice!(6)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。