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成長と差別 [閑話]

今日は午前中に検査のために病院に行った。知人から、これだけはやっておいた方が良いと
三ヶ月以上前に忠告された検査である。病院嫌いの私は1日延ばしに延ばしていた。
時候も良くなり、ふと思い立って一週間ばかり前に予約をしておいたのである。今日は、
問診と検査で、特に問題もなく、目的の検査結果は後日、聞きに行く事になった。
病院での順番待ちのために持参した小冊子「愚禿(ぐとく)の名のり」を読んでいて
感じたことを、今日は書きとめておきたいと思う。著者は一楽真・大谷大学教授。
この前、法然展・親鸞展と共に東本願寺に参詣した折に購入。価格:300円。本文41頁

法然・親鸞らは専修念仏の教えのため、遠流(おんる)の刑で四国と越後に流された。
知っている人は知っている?死罪以外で最も厳しい刑罰だった?それで僧籍も姓名も剥奪。
親鸞は許された後、苗字に、「禿」という字を時のお役所に届出たという。「愚禿親鸞」の
誕生である。「禿」という字は、僧衣は着ているが、戒律を守らない生活のための見せ掛け、
上辺だけの僧侶という意味があるらしい。(涅槃経に出ているとのこと)
著者・一楽氏は、親鸞が「禿」を雅号などの私的な名乗りではなく苗字として名乗った事に、
注目している。「僧」でも「俗」でもない、そういう二項対立的な思考の枠を超えた世界を
「禿」の苗字で表現したのだという。

もう一つ大切なことは、「専修念仏」がどうして迫害を受けたのか?ということである。
この問題も、私など愚者には分ったようで分らない。著者は、「念仏ひとつで皆が平等に
助かるというのでは、自力本願で修行している人々にとっては立つ瀬がない」からだという
趣旨の事を書いている。私は、以上のような小冊子を読んで、ハハァ~ン!と感じた。

数千年前に意識を獲得した人間は、L.ワトソンの記述する一匹目のサルの如くに、意識を
自力で開化させ、発展させ、成長した人間が成功した。そして二人目以降が追随した。
その後、物欲の俗界に飽足りない人間が精神的な成長を遂げ、僧界を結成し、俗界と対抗。
僧界のリードで、「僧」と「俗」の二界で左脳と右脳のバランスがそれなりに取れていた?
しかし時代と共に僧界も俗界に取込まれ左脳偏重となる。そこで新たな精神的指導者(例えば
キリストや法然・親鸞のような人)が出てきて、左脳と右脳のバランスをとってきた?

西洋科学の発展は左脳開発の武器を豊富に供給する事が可能になり、多くの人がその武器を
使って自力で自己の才能を開花し、成長する事に夢中になってしまったのではなかろうか?
まるで、ゲーム機で遊ぶ事によって、そういう才能を開花させて喜んでいる子供のように。
近・現代の人間は、喜んで科学を玩具にして成長する子どもだったのではなかろうか?
だが、左脳偏重で、人間の従来の間違いを再生産し続ける社会では取り返しがつかない?


問題は、一般庶民をだまし続けている原始的価値観ではないだろうか?
原始的価値観とは、自力開化のみの尊重。他力開化の差別・排除である。
自力開化とは、地位、財産、才能などを拠り所として、現世の成功を目指すことである。
他力開化とは、自己に「信」をおき、正しい教えを聞くことであり、精神的に安定し、
成長し、社会に騙されない事である。他人の施しなどの紐付きで成長する事では無い。

一般庶民の多くが精神的に「愚禿」姓になるという親鸞の「志」は宗教を遥かに超えている?
自力開化という原始的価値観が、従来の人間の間違いを再生産する最大原因ではないのか?
いずれにしても、自力開化というイメージ、即ち、自力本願という考え方は、排他的差別の
成長イメージであり、人間を社会の家畜にする思想であると思う。

問題の本質は、社会制度や体制を作り出す、人間の脳みその中にあるのではないか?
何時まで経っても、社会制度や体制を問題にし、改革ばかり標榜している政治家や指導者は、
どう考えても左脳偏重?そんな人物の改革では、益々左脳化が進むばかりで、どうしようも
ないのでは?自分は社会の家畜になっていないと思う人。日本にどれほどいるのだろうか?
恐らく多くの人々が「僧」「俗」含め、社会や時代そのものに騙されている?如何なものか
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