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過去・現在・未来 [閑話]

今日は、「アイスクリームの日」とか。
横浜の町田房蔵という人が、明治2年(1869)の5月9日に日本で初めてアイスクリームを
製造販売されたことを記念する。町田はアメリカで酪農技術を学んで明治元年に帰国した
出島松蔵にアイスクリームの製造方法を学んだ。最初に町田が販売したアイスクリームは
メリケン渡来の超高級菓子だったのではないかという。
今日も夏を思わせる暑さだったので、散歩途中のJoycafeで「冷しぜんざい」を喫したが
アイスクリームも入って、なんと\299円也。150年で庶民も楽しめる時代である。

話は、少し堅苦しくなるが、人間の生き方の過去・現在・未来に関するメモ。
法然展・親鸞展を連続して観覧し、親鸞の口称念仏の本質を会得したと思った。そして
人間の生き方の本質は昔も今も変わらない、という前提に立っている自分に気付いた。
それで、その前提が、果たして正しいのか?否か?少し、調べてみた。

1つは、従来の思想の系譜を辿る事による見方である。
西欧的な理性による「脱構築」の果てに、解答は見つかるのか?
「知」で「知」を克服できるのか?自己矛盾した発想を止めるべき?
(以上、cf.仲正昌樹著「集中講義!日本の現代思想」)
同書の目的が、人間が動物化、家畜化する未来を憂慮してのことらしい。
しかし、記述内容は決して明るい見通しがあるようには見えない。

2つ目は、生物進化の観点である。
私は突然、「100匹目のさる」のことを、即ち、L.ワトソンの「生命潮流」を思い出した。
親鸞の悟りが、世間に広まった後、衰退した理由は、そこから見出せそうか?
「生命潮流」という本は‘生物学的進化と意識’という観点から書かれているから、実に
長い(何万年も前から、そして意識が芽生えた3千数百年前からの)スパンで考えている。
その中に、現代に関する問題意識として、次のような記述がある。
“問題は均衡を保つこと。(近現代の)われわれは、偏った方向に重きを置きすぎ
技術と理性の側に落着いてしまったためにバランスを失い、代償を払い始めている”

最後の方には、素晴らしい(将来の人類を救済するかも知れない)才能を持った子どもが
精神薄弱児や自閉症児の特殊学級に入れられて、才能が押しつぶされている話がある。
「教育は、既成のイメージで、人間の従来の間違いを再現するコピー人間を生産する事に、
その全精力を費やしている様に見える」 という指摘は大変に重いものがある。



親鸞の口称念仏は、阿弥陀佛の本願を体して生きる事であり、魂の救済を共に行うこと。
魂の救済を金で売るのではない。
また、ワトソンの指摘するような間違った教育を強いる事ではない。魂の救済を願う者に、
それはすぐに叶えられることを教えるだけである。決して押付けない。

現代社会が、欲望の奴隷(自由意思のある動物or家畜)となって、足掻きまわる人間を
再生産しているのは、社会制度等のセイにする前に、我々のあり方そのものが問われる?
今の民主党政府のやり方(金で政権を買う)は、“人間の従来の間違いを再現する”
最も顕著な例である。原発事故も、天災も怖いが、それ以上に怖いのは、平凡な人間の
こころを蝕む政治家の行動である。民主党が政権を奪取した事で、最も心配される点は
民主党のバラマキ政治手法が、「間違い」と認識されず、他の政党にも蔓延するという
「間違いの再現・再生産」である。

以上、人間の叡智、特に近現代思想からと、生物進化の観点から、親鸞の教えが、
現代において、決して重きを置かれていない原因を探求してみた。
その結果は、現代の叡智が整い、恵まれているからではなく、分析的、論理的、言語的
知的な「左脳」偏重が問題であることが分った。情緒的、音楽的、空間的、直観的な
「右脳」の働きを尊重し、左右のバランスをすることが望まれる?
結局、人間の生き方の本質は変わらない? 如何なものか
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【みなと】

こんばんは。いつもnice!&コメントをありがとうございます。
先日図書館から借りた本に『歎異抄』が入っていました。
こちらは,親鸞の弟子の唯円が,師の教えをまとめたものだそうです。
まだ開いてはおりませんが,どちらかと言うと短編のようですので
この機会に取り組んでみたいと考えております。
by 【みなと】 (2011-05-09 22:25) 

moto

私も昔、歎異抄を読んだ事がありますが、何も覚えていません。
覚えているのは臨終のことです。「病悩苦痛の余り、念仏を唱えられず死ぬとも、日頃の信心を得た人は救われる」と書いてあった?(本が見つからないので未確認)

先日の親鸞展では、「高熱の床に臥した親鸞が、念仏に頼っている自分を振り返り、真の信心がまだ足りないと反省した」という内容の手紙(恵信尼・親鸞の妻が子どもに宛てたもの)が最近?発見されたと、音声ガイドで知りました。

二つの話は、対立している様にも思えますが、念仏は「仏の教えへの感謝」であって、「仏への願い」(自力)ではない、という親鸞が伝えた「仏の教え」にはどちらも正しい?病悩苦痛の余り、念仏を唱えられず死んでも、感謝の気持がないということではないでしょう。高熱でも感謝の念仏は唱えても良い。言い訳は可能だが、自己に厳しい親鸞は、自分が感謝からではなく、頼る心から発したことを正直に告白したのでしょう。
by moto (2011-05-10 20:17) 

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