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新鮮な出会い_2 [現代詩]

茨木のり子の第二詩集『見えない配達夫』(1958年発行)における
冒頭の同名の詩は、様々な場所や事象と時間との関わりを考察した哲学的な詩?
事象と時間とを繋ぐものとして、見えない配達夫を想定している。
地の下には見えない配達夫がいて、地の上には、国籍不明の郵便局があるという。
1958年(昭和33年)は、映画・「ALWAYS 三丁目の夕日」の時代。
従って「見えない配達夫」の創作時には、ネットや電子メール等は影も形もなかった。
しかし、詩に出てくる“見えない配達夫”や“国籍不明の郵便局”は、
考え様によって、ネットや電子メールを予感していた! と取れなくもない。

詩「見えない配達夫」は、
“未知の年があける朝
 じっとまぶたをあわせていると
 虚無を肥料に咲き出ようとする
 人間たちの花々もあった”  という聯で締め括っている。
私は、この詩には、未知への期待と共に、虚無的な思いが綯い混ざっているように感じた。
茨木のり子の第二の詩集『見えない配達夫』は、冒頭の同名の詩が象徴している様に思う。

詩「ぎらりと光るダイヤのような日」は、
この世との別れの日に、自分が本当に生きた日が余りに少なかった事に驚くだろう、という。
それは、本当に生きた日とは何かに、疑問を投げかけているようにも思える。
「敵について」、「生きているもの・死んでいるもの」、「世界は」などの詩は、
敵か・味方か?生きているものか・死んでいるものか?人間か・けものか?
を見分けることの難しさを言っているようにみえる。
それら、二つは寄り添い、一緒に並び、いつでも何処でも、姿をくらまし、
姿をくらまし

茨木のり子は未知への虚無的な疑惑・不安に抗し、未知への期待を懸命に繋ごうとしていた?
それは、詩「わたしが一番きれいだったとき」や詩「夏の星に」に示されている?
若さを反省し、長生きして頭の中を満たし、心を満たし、良い仕事をしようと思うのである。
また、“夏の星”に魅せられたわたしは、地上の宝石を、欲しがらない、というのである。




茨木のり子の随筆「詩は教えられるか」では、法隆寺にある
◎ 柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺 (正岡子規)
の句碑の前で、老女に意味を尋ねられた話が、最初に出てくる。茨木のり子曰く
「詩はまるのまま齧るしかない」、
「句碑の前で享受できなかったら千万言を費やしても無駄」 という。
(何の説明も不要という詩[和歌や現代詩も含む]もあるのだろう。)
「詩は、人それぞれ、どのように読み取っても良い」、
「私が教師なら、自分の心に何か触発されるものがあったら、そこを基点として話すだろう」、
「気に食わない詩だったら、軽くいなすか、無視するだろう」、
「詩の最大の敵は固定観念」、「優れた詩はみな固定観念を破った柔軟さを持っている」
などという名言を幾つも残している。

難しくいえば、‘郵便的不安’とか、‘オタク=動物化’という危険性を孕む言説だが
私の様に、現代詩を楽しみたいオタク以下のど素人には、いい勉強になった。如何なものか
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