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相撲界の野球賭博 [希望]

相撲界の野球賭博事件が勃発した。良く知らないが野球賭博も古い話題のようだ。
この種の話題は芸能界など他にもありそうだが、相撲界は他に比べて大きく扱われている?
私は、相撲界の事件が話題になるたびに、ある戯曲とその演劇、そして歌のことを思い出す。
相撲取りを志して果たせず、やくざになった男の物語・長谷川伸原作「一本刀土俵入り」だ。
親方に見放されて帰る当てとてない力士崩れの若者を同情し援助した酌婦お蔦。その10年後
悪いやくざに困り果てるお蔦たち家族を、かつての若者(駒形茂兵衛)がやくざになりながら
恩を忘れず10年前の恩返しをするという話である。

自分の事に精一杯で人の事など考える余裕もない時代、身を省みず若者を助けるお蔦の情け。
自分は人を思いやるのもおこがましいやくざになりながら、10年前の感謝の気持を忘れずに
命を懸けてお蔦の家族を助ける駒形茂兵衛。日本人はこの二人の心に感動し涙したのである。
「三丁目の夕日」の時代(昭和30年代前半)までは、こういう物語が受け入れられていた。
それは古いことを忘れてしまうのではなく、現在の我が身と引き比べて、自分をおいても人を
助ける心の尊さを思い出すだけの感性が、当時の人にはまだあったという事である。

「相撲界は古い体質だから、もっと現代に相応しい改革をするべきである。」という意見は
大変もっともであるが古くからあっても日々新たなものもある。尊い心を思い出す感性だ。
人間は、皆自分中心で生きている。お蔦や茂兵衛のような心を常に持つことはできない。
それでも思い出す感性くらいは持って我が身を省みれば、もう少し住みやすい社会になる?
相撲界における問題の対応の仕方が、いつも何か腑に落ちなかったのだが、それは日本人の
心の基盤、精神の基盤には触れないで、形にこだわる議論だったことに気付いたのである。

西欧では精神と肉体(行動)は一体と考えられ、西欧的合理主義、論理主義一辺倒の制度が
形成された。その背景には一神教的教理に従う精神の基盤があるからだ。しかし日本は?
日本は多神教的教理を背景にしており、精神基盤は一枚岩ではない。日本の道徳に一貫性が
あったのは、様々な事象から我が身を省みる「日本人の歩み寄りの心」の働きだった。
現代日本では、それを浪漫主義、日和見主義、他律主義として軽視し忘れ去ろうとしている。
「日本人の心」の基盤が揺らいでいる今日、日本人の将来は、厳しいものがあるだろう。
これからは、生きる上での精神の基盤が一枚岩でない現実を踏まえた議論が必要だと思う。
その様な観点から“様々な事象から我が身を省みる”重要性も再検討すべき?如何なものか。
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