SSブログ

米国留学少女物語・2 [物語]

DSC090509捨松1.jpg図書館で、久野明子著「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松」という本(左の写真)を借りて生い立ちから帰国したところまで読んだ。この本は、今まで読んだ本の中で、捨松の留学時代ついて最も系統的に記述されていた。著者は捨松の曾孫に当たり、留学時代のことを現地に問い合わせて得た情報を元にしている。以下に、寄宿先の人や学生時代の友人などの捨松に関する印象をピックアップした。手紙や日記、原稿に書かれた内容が保管されていた。

1872(明治5年)コネチカット州ニューヘィブンの牧師・レオナルドベーコン宅
に寄宿した後、ベーコン夫人は、捨松を、“誰も欠点を見出すことができない、天真爛漫、
頭がよく、優しくて信頼がおける。みんなが虜になってしまった。” と友人への手紙で書いた。
近所の遊び友達は捨松を、“いつも元気一杯、かけっこが早く、泳ぎも木登りも上手だった。
橋上から矢のように真っ直ぐ水中へと飛び込む演技も素晴らしかった。” と後年同窓会紙誌に
投稿していた。また捨松が学士号を取得したバッサーカレッジの恩師も“慎み深く寛大、
楽しい事が大好きな少女で、高貴な家柄であることは言わずとも自然にそれが滲み出ていた”
と校内誌に書いた。

渡米後、1875(明治8年)9月 ヒルハウス・ハイスクールに入学
1876(明治9年) ニューヘィブンのセンターチャーチで洗礼
1878(明治11年) ポーキプシーのバッサーカレッジ入学
1882(明治15年) ポーキプシーのバッサーカレッジ卒業 総代を務めた。
 捨松はアジア女性として、米国大学の学位をとった初めてだったという。
1882(明治15年) 11.21 横浜に入港

しかし、捨松の帰国時の日本は、出発時とは様変わりしてしまっていた。
政府は、留学帰りの捨松にやってもらうべき仕事を何一つ準備していなかった。
捨松は、「浦島太郎」状態になってしまったのである。山川浩、健次郎の兄達は立身出世したが
旧会津藩の窮状にあえぐ親類縁者を助けるために、捨松を援助する経済的余裕はなかった。
捨松における文明の衝突は、日本に軸足を置いた欧米との衝突ではなく、欧米に軸足を置いた
日本文化との衝突ではなかったか? 結論ではなく、当面の仮説として提起した。<未完>

コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。