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米国留学少女物語・3 [物語]

今日も好天で、数日前までと打って変わって真夏とまではいかないが、暖かくなった。
さて捨松物語を続けよう。
一年前(1882)に、ニューヘィブンを去るときには、米国で学んだことを生かして国のために
働こうという大きな夢を抱いて帰国した。しかし日本社会の分厚い壁にぶつかり、帰国後1年に
して結婚していない女性は半人前扱いであるという考え方に同調して、大山巌と結婚した。
女子教育に一生を捧げるという親友・アリスベーコンとの約束を破った変節は明らかだった。

此処に、日本人における文明の衝突「行動パターン」の原型があるように思う。
捨松は、女子教育向上という公的使命から、子供の育児、家庭教育という私的使命へ転換した。
そういった転換を厳格に問題にしない。恐らく多神教的精神風土にあるためだ。
捨松は、自分の変節が日本社会との融和のためであると、熱心にアリスに理解を求めた。
私は、明治16年(1883)に結婚した弱冠23歳の捨松を非難しているわけではない。
捨松の内面における文明の衝突の現実的な回避手段、解決方法に焦点をあてた迄である。

話は突然飛躍するが、夏目漱石が明治44年(1911)、8月、大阪での講演「文芸と道徳」で
道徳を、ロマン主義的道徳と自然主義的道徳とに分けて論じた話を紹介したい。
ロマン主義的道徳を、支配階級に都合のよい、人間にはできそうもない理想的倫理観に
自然主義的道徳を、科学等の発達による影響で理想が低くなった道徳観に対応させている。

そして今後(1911)の日本人の望ましい方向として、“実現できる程度の理想を抱いて
未来の隣人(外国)・同胞との調和を求め、弱点を寛容する同情心を持して、現在の個人に
対する融合剤とする心がけ”が大切だと説いている。
夏目漱石の講演文書を読むと、捨松の変節が間違いではなく、立派な対処だったことが分る。

夏目漱石の血を吐く思いの一連の講演を日本人が理解し、実践していたならば、あの悲惨な
不幸な戦争は起こらなかったろう。漱石は講演後胃潰瘍が再発し大阪で入院した。漱石の遺言
に等しい一連の講演は、今後(2009)の日本人のあり方にも重要である。
現代(2009)の我々は、実現できる程度の理想を抱いて外国・同胞との調和を求めているか。
如何なものか。

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