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藤の物語 [歴史]

今日は、晴れたり曇ったりだったが、昨日よりも暖かだった。
DSC090106阿智藤銘板.JPG散歩で、旧倉敷総鎮守の宮として近郷近在の人々の尊崇を集めてきた阿智神社にお参りした。
帰り道、神社の裏にある藤棚の脇に、「阿知の藤を讃える」という銘板(写真)に気付いた。
倉敷の市花が藤の花であるのは、この藤棚の藤が起源だとは聴いていたが、5年以上前(平成15年)からこの銘板があることには気づかなかった。
銘板によると、藤の花を讃える漢詩は、藤の美しさを、この神社の北正面にある福山の古戦場で義に殉じた人々と対比させながら讃えている。
藤は古戦場で義に殉じた人々を慰めるためにゆかりの人々が植えたという。
漢詩の内容を要約すると、藤があけぼのに映えて美しい。藤は、義のために素晴らしい戦いをした人々を今も讃えているようだ。そのことを道行く人は知らずとも ということになる。

福山の古戦場の話は「太平記」 巻の15の中ほどに“備中福山の合戦”として記載されている。
「太平記」は正和5年(1316)~応安元年(1368)の間の物語である。 
50余年の間に北条氏が実権を握っていた鎌倉幕府の崩壊と共に、後醍醐天皇による天皇親政とその崩壊という二度の大きな変化のあった時代の物語である。後醍醐天皇が倒幕を画策し、隠岐に流されたが一時は建武の中興と言われる天皇親政となる。しかしその後、足利尊氏が武士政権を確立して室町幕府を開く。まさに激動の時代だったのに「太平記」とはこれいかに?
戦乱の記述は、太平の世を実現するために人々が知恵を出し合うネタだから「太平記」とか。

銘板では福山の合戦は官軍の全滅(賊軍30万に対して官軍1500)となっているが太平記の記述によると和田四郎なる人は延命している。数奇な運命で助かった話から推し量ると、その当時の戦いは親戚同士が敵味方に分かれて戦っていた。南北朝の時代は親戚同士が命のやり取りをしてでも獲得しなければならないものがあったかもしれない。外敵に滅ぼされないための強靭な力を蓄えるために。だが所詮、支配層の権力闘争だったのではないのか?

省みて、現代の与党と野党も、皆親戚同士のようなものである。トップに立つ人たちは、支配層の権力闘争ではなく、万民のために知恵くらべをしてもらいたいものである。

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