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「カーネーション」第7週・雑感 [物語]

今週のカーネーションの話は、今週だけでは、糸子(尾野真千子)と善作(小林薫)との
葛藤の意味がわからないと思う。今週の物語の意図はなにか?順次、述べたい。

今週の最大の見所は、「紳士服ロイヤル」と生地店「末松商店」における修業にも
合格した糸子の洋裁店開店の申し出に、善作は、何故、糸子を殴り飛ばしたか?
昔の親父とは、自分の気に入らない事は、何でも殴り飛ばす粗暴なDV男だったのか?

思えばパッチ屋の桝谷幸吉(トミーズ雅)から糸子の評価を聞き、善作が糸子を一人前の
洋裁店主に育てて、店を譲ろうと考えたのが、昭和五年のだんじり祭りの日であった。
その後、根岸良子(財前直見)に洋裁の技術を糸子に教えて貰うよう土下座して頼んだのも
百貨店の見本を実物で勝負しろとアドバイスしたのも善作だった。そして、短納期商品の
仕事も立派にこなし、もう一人前になったと、小原呉服店で洋裁の商売を許したのだった。
思えば、店を譲ろうと善作が決意してから三年。「石の上にも三年」という言葉がある。
やっとの思いで過ごした善作にとって、芸妓・駒子(宮嶋麻衣)の洋服代を受取らなかった
事に、善作は、糸子の商売人としてのみならず、人間としての甘さを見たのである。
この善作の直感に関して、是非を問うことは可能だが、人生は一度きりである。
生きるという事は、他人事として扱う評論家とは違う、自分自身の主体性の問題である。

善作は、自分の直感を信じて、糸子を再度、「紳士服ロイヤル」と生地店「末松商店」に
修業に出したのである。この一年余りの糸子の修業は、善作にとって余計な時間だった。
一年余りの糸子の修業は、糸子にとってプラスだが、善作にとってはマイナスなのである。
それにもかかわらず、親に向かって生意気な口を利いた糸子に、酒も入っていたために
カチンと来たのではなかろうか?善作を庇うつもりはないが、人生の一寸先は闇である。

糸子には、頑固な父親に、自分の思い、志を阻まれているという被害者意識があったろう。
だから、「親の心、子知らず」で、生意気な口を叩いてしまったのである。しかし
糸子が善作との修羅場後、顔も見たくないと母方の祖父母の家に逃げて行った時の事だ。
祖父母の老いを感じ取り、最早、自分が守られる立場ではなく、守る立場に気付いたのだ。
その伏線には、吉田奈津(栗山千明)の父親が亡くなり、時の移ろいを感じた事がある。
糸子と奈津は、育った環境は異なっても、健気に一家を盛立てようとする気持は、同じ?
奈津が、父親を失っても健気に頑張っている姿に、糸子も自分を重ね合わせるのだった。
そして、父親の権威を誇示しながら、その拠って立つ根拠の薄弱さを知るが故に、酒に
紛らわせて生きる善作の苦しい心の内を、何となく察するのである。

昔の人は、古い道徳に縛られた哀れな人々だったと、今の人たちは思うかもしれない。
しかし、私には糸子や奈津の生き様を思う時、彼らが縛られていた古い道徳とやらよりも
現代人の方が、乱れ飛ぶ無責任な情報に振回されて、自分を見失った哀れな姿に見える。

現代の人は、目下の人間を守ることは当り前でも、年老いた親などを守るべき人とは
なかなか思えないようである。世間体や道徳観からではなく、祖父母や親を守るべき人と
自らが思える様になれば、その人は真人間として大きく成長したのではなかろうか?

子供は社会で育てるという「子ども手当」の趣旨が、如何に間違っているか!
それは“人間は社会で育てる”という事と同じだからである。従来から人間は社会で育った。
社会とは、“場”に過ぎない。人間は、人間でしか育てられないのである。それはなぜか?
人間には、「魂」が必要だからである。「魂」は、人間からしか伝わらない。「魂」を知らず
社会で育った人は、人間的な振る舞いはできるだろう。現代でも無責任な情報に振回されて、
自分を見失った哀れな人間なら、日本も社会風潮に流されて、既に、数多く発生している。
いまや、そういう人間を「子ども手当」で、もっと大量生産しようというのだろうか?
本当に自分たちが守るべきものは何か?ジックリ考えるべき時ではないか?如何なものか
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