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雑談・季節感と無常or恋 [閑話]

古今集に、次ぎの様な歌がある。古代の季節感に関する面白い情報だ。
◎ 神無月 時雨もいまだ降らなくに かねて移ろう 神なびの森 よみ人しらず
意は、旧暦10月(冬)に降る時雨が紅葉させると言うが、既に神なびの森は紅葉している
という。この歌によれば、奈良・平安前期以前、紅葉は冬になってから、という事になる。
現代は、紅葉が遅れ気味?で、季節の移ろいも、奈良・平安前期以前に戻っているのか?
季候は長期間で大きく変動しているのだから、現代の温暖化現象が、不可逆的な変化か?
また寒冷化に向かう循環的な変化か?我々人間には、簡単にわからないだろう。

◎ 秋の菊 匂う限りはかざしてむ 花より先と 知らぬ我が身を つらゆき
DSC09061野菊.JPGこの句も古今集。意は、花より先に死ぬかも知れない我が身を、
菊で飾ろう、という。菊は不老長寿に効くという。だから、菊に
あやかって延命を願うということか?現代の人は、菊の命よりも
自分の命の方が、何の根拠もなく長いと確信するから、菊に
あやかるという心境は生まれない?紀貫之は「無常」という事を
知っていた?だから、心の平安を得るために、
菊の気高い香りを身近に感じて居たかったのだろう。

古今集・秋歌・下に並んで掲載されている次の2つの歌は、対になっているように見える。
A)秋は来ぬ 紅葉は宿に降り敷きぬ 道踏み分けて 訪う人もなし よみ人しらず
B)踏み分けて さらにや訪わむもみぢ葉の 降り隠してし 道と見ながら よみ人しらず
秋が訪れ、紅葉が我が家に降り敷いてわが家への道がわからなくなり、道を探しながら
訪れる人もない。というのに対して、もみぢ葉で隠されてしまった道と知っているから
紅葉を踏み分けて、きっとお訪ねしたいものです。と返している、と読める。

A)は、秋という憂愁の「季節感」と人生における「無常観」とを旨く歌い込んだ。
何か悟りすました感じがあるが、私は、これは一種の恋歌ではないかと思う。B)の様な歌を
返したくなる不思議な色気があるからだ。A)の作者は、男性でも女性でも良いのである。
気心の通じる異性の友人に送ったと仮定するとなかなか興味深い。
古代人の平均寿命は短かったとはいえ、30代、40代以降でも魅力的な人は多かったと思う。
世の中の風潮にあわせて、悟りすましても、親しい人には見え見えではないか?
恋の手練手管には、様々な手法がある?古代の方が洗練されている? 如何なものか
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【みなと】

おはようございます。コメントありがとうございます。
秋が深まると,「無常」と言うことばが身に染みてまいります。

ところで,茨城県笠間市にある西念寺は親鸞聖人と縁の深い場所です。
我が家の菩提寺ではありませんが,子供の頃は泊まりでミニ修行?しました。
境内にある大イチョウも見事です。今度はこちらもブログ記事にしたいと考えております。
by 【みなと】 (2011-11-17 08:19) 

moto

東京(国立博物館)では、法然と親鸞を同じ会場でやっているらしいですね。
大イチョウといえば、今頃の黄葉も見事ではないでしょうか?それとも、笠間では既に時期をすぎたでしょうか?西念寺のブログ記事を楽しみにしています。

by moto (2011-11-17 18:14) 

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