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夕焼け雲に想う [物語]

昨日の夕方、散歩途中で見とれるような夕焼け雲に出会った。
もう乏しくなった夕日の残光に映えた黄金色の雲は、朱色と雲の襞の薄墨色との間に
多様な色彩を混ぜ合わせて、この世のものとも思えない、妖しい光を放っていた。そして、
私がチョッと目を離していた間に、黄金色の妖しい雲は、どす黒い雲に変わっていた。

私の脳裏に、般若心経の「色即是空」というのは、この事だと、思い浮かんだ。
「色即是空」というのは、“感覚的認識によって様々に変容する事象は、実体がない”という
事である。雲も、一時として同じではなく、不断に変化するのであり、気象予報などでは
ダイナミックな変化の中で捉えるという科学的手法を用いている。
それなのに一般的な人間は、感覚的認識によって同じ“雲”の千変万化に目を奪われる。
「色即是空」で言いたい事は、ものごとを断片的に捉えず、ダイナミックに捉えよ!と
いうことだと解した。そこで、私は考えた。
仏教でいうところの「色即是空」というものの見方、考え方を、実社会でどう捉えて、
利用していけばいいのだろうか?と。そして、一つのアイデアを、思いついた。

それを説明するのに、押尾被告の裁判の問題を例にしたい。
この裁判の関心は、保護責任者遺棄致死罪が成立するかどうか?である。
この罪に問われるためには、薬物を押尾が被害者に渡した事、が立証されなけではいけない。
これは、本人の証言または明確な他人の証言がない限り、状況証拠になり明確にされない。

もう1つの関心は、押尾被告の人間性の問題である。押尾被告は一般的人格者であった。
それが、薬物の影響、或いは特殊な状況で、彼の人格が豹変したか否かである。
その争点になるのが、救急車への連絡だ。仮に急死したとして、友人に救急車も呼ばない?
常識人である私としては、考えられない行為である。これは被害者の輝きがなくなった時に
押尾の心に暗雲が広がったと見るのが妥当だろう。この暗雲が、被害者を見捨て、薬物関連
証言でも否定している源? こういう場合の豹変は人間として下等だと言われている。
押尾裁判を、法律的な観点からだけで観ていると、どうしても静的な見方になる。
一般常識や、庶民感情からのダイナミックな視点を欠かす事はできない。
そういうダイナミックな視点から見る時、浅ましくも自己保身のために豹変した醜い彼の心が
見えてくる。その心を醜い浅ましいと思えないなら、悲しいことだ。如何なものか。
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