SSブログ

利と義と [歴史]

DSC090125天地人.JPG今日の昼前、BS2で、“その時歴史が動いた”という番組の
「戦国にかかげた“愛” 北の関ヶ原 直江兼続の決断」の最後の方だけ見た。 今年の大河ドラマ“天地人”で話題の人物である。
大河ドラマ“天地人”は初回から見ている。 兼続の幼い頃(与六)を演じる加藤清史郎が実に健気な好演だった。
キッと素晴らしい俳優に育つだろう。成長を祈っている。
上杉謙信は社会の構成要素を天地人という形で簡明に把握した。
天(運命・潮時)、地(資源・場所)、人(人材・人の為す事)。 複雑な社会を天地人とスッキリ整理することによって“義”の大切さを明確に把握できたのだと思う。 (写真は今日 本屋で買った本の表紙)

“その時歴史が動いた”の番組の最後に、直江兼続を評した言葉として
「人というものは利を見て義を聞こうとしないものだ。 そんな中で直江公は、利を捨て義をとった人だった」 という意味のことが紹介された。 兼続と親交のあった京都・妙心寺の南化玄興和尚の言葉だそうである。 この言葉が私には引っかかった。
“一般人が利を見て義を聞こうとしない”というのは良いとしても、“兼続が利を捨て義をとった” というのは言い過ぎではないか? それではまるで聖者のようではないか。

これは利・義の当時と現代との解釈の違いによるものだ。
直江兼続評を 正当に理解する解釈の仕方として、大きく二通りのやり方があると思う。
1つは、「利」という意味を、利己主義に近い意味と考え、
「義」とは、利他主義に近い意味と解釈する。
もう1つは、「利」を適正な収入を超える不当な収入・利益と言う意味に解釈し、
「義」とは、収入の多寡に煩わされず、領民のための政治を司ることと解釈する。

いずれにしても、戦国末期の時代、弱肉強食、下克上の世の中を正すために、社会の構造という原点にさかのぼって、よりよき社会の建設を考究した謙信・兼続という師弟の志を思う。 資本主義社会の爛熟した現代は当時と似ている。 家康のような自己の家系を守るのではなく 「義」をもって政治を司る謙信・兼続のような師弟が現代の天下を取れないのか? 如何なものか。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

私的儀式利と義と・2 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。