SSブログ

私の知識と普遍的知識 [閑話]

この記事は、前々回の「私の体験・他人の体験」の続編の様なものである。
普遍的知識とは、自然科学的知識の様な知識を指すが、自然科学的知識とはどんな知識か
と問われれば、私には正確に答える事はできないが、まあそういう知識だという事である。
此処では、自然科学的知識とは、「自然科学の権威ある教科書に書いてある知識」とする。

それでは、「私の知識」とは何か? 「本音と建前」という言葉があるが、
「私の知識」=本音、だと思っている。先日の直覚体験で得られた知識とも言える。
例えばある時、私がゴールを割ったシュートは、どんな名場面、名選手のシュートとも
全く異なる体験であり思い出に鮮烈に残るもの。この自分史の伝説=「私の知識」だ。
例えば後輩と魚釣りに行き、本音は後輩が釣った魚より自分の釣った魚が大きかったと
思っても、後輩の得意げな顔を見て、自分の釣果を誇らず、後輩を立てるという事も?
「私の知識」に、普遍性や客観性はないが、私が生きる上で大切な意味を持つ。

こういう「私の知識」と「普遍的知識」がある事を、時代の変化と共に忘れかけている?
個人の悩み相談に関る占い師や、怪しげな宗教家、或いは詐欺師が、個人の心の隙をつき
金儲けを企む行為は決して褒めた事ではない。なぜなら「私の知識」を利用し、共通点を
抽出し「普遍的知識」に利用するという、「私の知識」と「普遍的知識」を混同する手口が
卑怯だからだ。目的の為には手段を選ばぬという悪人には、十分注意する必要がある。

そこで、最近良くやる「アンケート」や「世論調査」の問題点である。
「アンケート」や「世論調査」による取得データは、「私の知識」或は狭い範囲の世間の
常識とか世論とか「私の知識」の仲間で、少なくも「普遍的知識」の様な客観性はない?
しかし調査結果は、統計学という科学?のフィルターを経ると如何にも「普遍的知識」に
変換された様な状況になる。本当にそうだろうか?統計学による調査は、視点の転換や
新しい視点の創出という事には役立つだろうが、「普遍的知識」と思い込むのは危険だ。
私は常々眉に唾しながら見ている。しかしマスコミによる政治がらみの「世論調査」が、
世論誘導になってしまうのは、多くの人が調査の基本データが「私の知識=本音」或は
常識や世論という曖昧なものという事を忘れ「普遍的知識」と思込むからではないか?
老人が若者批判するのは、世の習いであるが、最近分かった事は、若者というのは常に
「普遍的知識」を尊重する傾向にあるという事である。そして現代は、若い事に対し
大きな価値観を抱く人が老人にも増え、その分、「普遍的知識」を尊重する年齢層も
高齢化したのでは?だから高齢化社会でも世論誘導になってしまう?如何なものか
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

私の体験・他人の体験 [閑話]

今日は、天皇誕生日。従って明日は休日になる様だ。毎日が休日の私には関係ない?
実は微妙に関係する。飲食店やゴルフ練習場などの平日割引が無くなるからである。
細かい事はさておき、天皇家のご繁栄を陰ながらお祈り申し上げる次第です。
前回のブログ記事「TVドラマと私」で私は、
“人生で大切なのは、自然科学や理屈で解明できる様な人まね、受売りの経験ではなく、
食う為、生きる為、金の為の体験でもない。自分自身の全体を揺るがす圧倒的体験だ”
という事を書いた。この種の体験を直覚体験と呼ぶなら、直覚体験は、音楽活動や
スポーツ活動、また様々な芸術活動に限らない。仕事を始め、ボランティア、日常の
瑣末な活動、観光、旅行、その他、広汎な活動で体験可能だと思う。

しかし、ある時、同世代に近い人々を含め世代を超えた若者たちの中には、直覚体験と
いう事を知らないのではないかと?と感じる様になった。 何が違うのか?直覚体験は
自分自身を含めて体験する。だが直覚体験を知らない人々は、体験を客観的な知識として
抽出し、知識を我が身に所有するという形態なのではないか?

言い方を替えるならば、私の体験も他人の体験も、入換え可能という事である。例えば
感激や感動の体験を人間関係のほだし(束縛)といった即物的なモノに変換するという事。
「純と愛」物語の事例では、ホテルの客に夢を与え喜んでもらうという事であるが、
それが単に商品のやり取りに見えるのだ。即ち客もホテル側の人間も、何も変わらない。
純のおじいは、素晴らしい夢を与えるホテルマンかも知れないが、その感激や感動が、
純の父・善行(武田鉄矢)の人間性を変化させる事に何の役にも立っていないのだ。
純自身もおじいとの体験を何ら活かしていない。数々の才能を開化した愛(イトシ)も、
弟の死に訳の分からない反応をするだけ。素晴らしい経験は人間性に何の影響も無い?

何故そうなるのか?
直覚体験に等しい経験をしていながら、自ら自身を含む問題として捉えないからでは?
自然科学的態度で、自己と切り離してその種の体験を振返り、知識として所有するから
自分自身の人間性は何も変わらないのだ。どうしてそういう人々が多くなったのか?
理由は、直覚体験習得の方法にある。日本における直覚体験の習得は、幼児時代からの
環境の中に組込まれてきたのである。しかし、時代と共に、西欧流の自然科学的態度、
即ち合理主義が優勢となり、そういった直覚体験の環境が破壊されてしまったのだ。
直覚体験を失った人々は迷い続けるのでは?これからの日本は大変?如何なものか
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

素人と玄人 [閑話]

夏目漱石は、大正三年(1914)に標記と同名(玄人の字=‘黒人’)の評論を書いている。
「玄人」を辞書で引くと、1)物事を専門にしている人、2)芸者、遊女、という解釈である。
「素人」は、「玄人」の反対の意味しか書いていない。
漱石は、上記評論「素人と黒人」で、“素人”を、芸術や文芸の傾向を帯びた普通の人と
して取上げ、並みの“玄人”と比較し、優劣を論じている。そして、並みの“玄人”は、
細部にこだわり、全体(輪郭など)を忘れており、“素人”は、全体像を把握しているから
並みの“玄人”よりも優れていると結論付けていた。

私は、この文章を読んで、漱石はどのような意図があって、この文章を書いたのか?と
疑問に思った。漱石の文章を云々する様な立派な立場ではないが、この文章を他の文章と
比較すると、生煮えの感は止むを得ない。漱石が、この文章を書いた原因は、本評論を
読めば書いてある。ある人との対話の中で、素人と玄人という言葉を用いて、日頃、頭の
中にあった芸術に関する考えを説明したが、納得してもらえなかった。そこで系統立てて
表現しようと試みたのが、この評論文だったというのである。

この評論文の問題は、漱石自身が書いてある文章“素人と玄人との優劣は、芸術界から
解放して、人間の上に加えてみると、存外はっきりするのである云々”から明らかだ。
“素人と玄人との比較問題”は、漱石も上記の文章以下に論じている様に世間一般には
旨く適用できるのだが、芸術の分野に適用してしまうと収まりが悪いのではないか?
それが、漱石にしては珍しい、論旨が生煮えの結果になった理由だと思う。

漱石は、並みの玄人に関して、次の様な特徴があると書いてある。
1)人間の本質とは関係のない上っ面丈を撫で回している。2)要するに玄人の誇りは単に
 技巧の二字に帰着してしまう。
この特徴を、芸術家や文芸作家に適用するとなると、‘並み’という修飾語がついても
色々と問題があるのではないか?売文業というのは文芸ではない?し、芸術家として、
上っ面丈を撫で回した技巧だけの存在というのは、あり得ないと思う。
但し現代の様に、並みでも真の芸術家や文芸作家、科学者が居ない社会には、この評論は
非常に的確な指摘だと思う。昔は、哲学者、聖職者、教職者も、少し前の芸術家や科学者
の様に、人間の本質を忘れず、全体を把握しつつ自己の信念に生き、社会の進むべき道を
照らす灯台の役割を果してきた。今や、そういう役割を担う集団は期待できないのか?
道は、素人の勘を頼りに、自らが照らし出すしかないのではなかろうか?如何なものか
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

石川遼2年振りの優勝と心の平安 [閑話]

石川遼(21)が、男子ゴルフの三井住友VISA太平洋マスターズ:静岡県御殿場市の
太平洋クラブ御殿場コース(7246ヤード=パー72)の最終日(11/11)、通算15アンダで
優勝した。石川のツアー優勝は2010年の同大会以来2年振り、通算10勝最年少記録更新。
最年少の通算10勝記録は、1974年に尾崎将司が樹立以来、その記録が長らく続いた。
今年、池田勇太が26才9ヶ月で破ったが、石川遼は21才1ヶ月でそれをまた更新した。

2010-11-15のブログ「閑話'10.11.15」記事に、2年前の優勝当時の事が書いてある。
2007年のマンシングウェアKSBカップ(岡山・東児が丘マリンヒルズGC)で初優勝。
世界最年少15歳Vとか、ウッズ超えた天才!等とフィーバした勢いが続いていた。
2010-11-15当時、その後の今日まで未勝利が継続されると、誰が予想しただろうか?
とは言え、生涯獲得賞金額は、既に6億円を超えているという。副収入も相当なもの?

しかし才能一つ、腕一本で生きて行く事の難しさ!プレッシャーの凄さは如何ばかり?
遼の様な立場になったら、もう一般人には戻れないのである。皇室の方が一般人の様な
我儘を言うと、様々なストレスを受ける様なものである。
今の若い人は、“世の中が固苦しい”とか、“生き辛い”とよく仰るが、その原因は
自分の我儘、欲望の為である。我儘、欲望は他人とぶつかるからストレスになるのだ。
「好きな事をしたい」 「金が欲しい」 「有名になりたい」 「何かに秀でたい」等
様々な夢や欲望を満足させるためには、「努力」 「辛抱」 「運」が必要である。
石川遼のようなゴルフの才能に秀でた人でさえ、“マスターズ優勝の夢”は遠い。

昨日引用した“大トルストイ”は、ロシアの貴族に生まれ、“血統” “財産” “人格”
“人柄” “才能”など欠けた物は何もなく、名誉もそして人々からの尊敬も獲得した。
それにも関らず、一時期は人生の虚しさを感じて自殺しようとしたという話もある。
そういう恵まれた境遇の人がたどり着いた「生きる意味」について、「人生論」は
噛んで含める様に、繰返し繰返し、様々な表現やたとえ話を交えて述べている。
ただ残念な事に、大トルストイは、悲しいかな!生れついての「持てる者」だった。
だから、財物は全て投げ打つ覚悟さえ持っていたが、劣った人間、欲のある人間達を
許すことができず、彼の信じる正しい生き方に拘った。これも1つの欲?

人が自分を生かしてくれている社会に「感謝」を忘れ社会に何かを期待する限り、人は
社会の欲の渦に巻込まれてしまい、如何なる心の平安も得られないのは?如何なものか
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

飛べる鳥・飛べない鳥 [閑話]

「窮屈な現代への反乱 拝金、格差・・・大事なもの問う」と題した今朝の読売新聞の
文芸月評を読んで何時もの事ながら、オカシイな~!と、感じた。例えば
受賞者最高齢・谷川直子さん(52)の文芸賞受賞作「おしかくさま」の評論だ。筆者
(文化部:待田晋哉・奇しくも「純と愛」の愛の姓と同一)は次ぎの様に書いている。
“人間の偽善や硬直する社会に、柔らかく「反乱」を企てている所が良!”何処が反乱?
と読み続けると、“「金が何より大事」と語る中高年女性信者の新興宗教のたまり場=
おかくしさまに出入する父親(元教師)に、娘(姉妹の姉の方・離婚経てうつ病49才)が
反乱した”。うん?父親は、中高年女性信者を誘惑しようとでもしたのか?と思ったら
あにはからんや、元教師の説教魂を刺激されて忠告しているというのだ。そのことで、
姉娘は、胸の内に抑えていたものが噴き出した。それが「反乱」なの?

“格差社会が進み、ますます金の力が猛威を振るうのに、「金より大事なものがある」と
言った文言が幅を利かせる社会への軽やかな一撃だ。”と筆者はのたまう。何かおかしい。
「金より大事なものがある」という文言の幅が利かないから金の力が猛威を振るうのでは?
「おしかくさま」物語のうつ病49才姉娘は、自分の不幸を父親のせいにしている?

人間の言語というものは、便利なもので「白を黒」と言いくるめられるという。
(私にはそんな芸当はできないが)
2012.10.27の私のブログ“「純と愛」第24回感想・生きる意味”でも書いたが、
この姉娘も「生きる意味」を見失っていたのではなかろうか?そして、書評の筆者も?
なぜならこの本の書評の最後に“金銭、家庭、年齢に応じた落着き。窮屈な生き方を
強いる世の建前に投げつけた本気のナックルボール”と書いているからだ。
日本では現代ほど自由気儘な時代はなかった。その現代日本において
「窮屈な生き方を強いる世の建前」とは何か?タカが親父の説教ではないか?

私は、鳥の本性を「飛翔」とすれば、対応する人間の本性は「理性=言語」だと思う。
上述した様に、本書評には、様々な現状認識に問題があり、オープン社会志向の様に
見えて、この様な言語の使い方は、実は閉鎖社会志向ではないか?こういう考え方が
蔓延すれば、狭い領域に閉じ込められていると勝手に思い込んでいる人間が増殖し、
何の意味もない「反乱」で社会はまたまた混乱するだろう。鳥の飛行能力の消滅は
隔絶された島嶼の鳥類にしばしば起きるという。そうだとすればこんな事の繰返しで
飛べない鳥になる様に人間の理性は、徐々に衰えてしまうのではないか?如何なものか
nice!(1)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

絵画音痴の絵画話 [閑話]

先日マウリッツハイス美術館展を見に行った時に、ブリューゲルの絵に出合った。
それは、第5章「静物画」 34番 ヤン・ブリューゲル(父)作
<万暦染付の花瓶に生けた花>:1610-1615頃制作 という作品だった。(画像URLは以下)
http://blog-imgs-55.fc2.com/b/l/e/bleuvertantique/20120712114533b60.jpg
バラとチューリップを中心に、水仙に蝶がとまり、テーブルにてんとう虫が居る。

何が、絵画音痴かというと、その絵の説明書きの解釈力だ。説明には
「著名なピーテル・ブリューゲル(父)の息子であるアントワープの画家
 ヤン・ブリューゲル(父)・・・・・云々」とあった。
私の近くで見物していた二人ずれの女性の一人が、盛んに「この記述はおかしい!」と
不服そうだった。普通は見過ごしてしまう問題だ。なかなか日本語堪能な女性である。
ネイティブな日本人だろう。ただこの文章の解釈は、絵画音痴でも正しく解釈できる。

「(父)の息子=(父)」という論理は、成立たない。
しかし説明書の記述は、「某A(父)の息子=某B(父)」だから、成立つ条件はある。
それは、某Aにも、某Bにも、同姓同名の子どもが居る場合である。此処での
“(父)”、“(子)”という記述の意味は、同姓同名の父子の区別だった。
その場合「某A(父)の息子=某A(子)」、「某B(父)の息子=某B(子)」は成立つが、
「某A(父)の息子=某B(子)」は、間違いという事になる(某B(子)は孫になる)。

不服申し立ての女性は、「某A(父)の息子=某B(子)」と訂正すべきだと言っていた。
彼女は、“(父)”、“(子)”という記述の意味を、一般的な父子関係の説明と解釈
したのであり、その限りにおいては決して間違ってはいなかった。
しかし絵画通の人々からすると、常識もない絵画音痴と思われるのではないか?

その場に居た私は、何とか、簡潔に説明できないか?と思ったが、
絵画音痴で知らぬ事の多い私としては、下手に恥を掻かない方が良いと判断して
口を噤んでしまった。その時の絵画知識抜きで説明する宿題を、このブログで果たした。

現在の歌舞伎や落語の襲名披露でもわかるが昔の人は、同姓同名の親子が多かった。
オランダ等ではピーテルは聖ペトロ、ヤンは聖ヨハネを意味する。特に著名な聖人に
あやかりたい人々の願いが、多くの同姓同名を生むというわけである。如何なものか
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

子ども環境と子ども天国・地獄 [閑話]

昨日のブログで、「国際子ども図書館」の事を書いたが、その後で、子どもを取巻く
環境の変化という事について、少し情報を集めてみた。そこで気付いた事は、
子どもという概念が、長い歴史の中で普遍的になっている証拠はなにもないという事。
近年では、「子ども」という区別が、好むと好まざるとにかかわらず、市場経済原理や
テレビなどの情報伝達技術の変化に伴って無くなって行く傾向にあるという。
元々、「子ども」という概念は、保護すべき対象として設定されたが、それは近代に
なってからであると、フランスの歴史家フィリップ・アリエスが、結論付けた。
これはアリエスが、中世の子どもの生活を丹念に調査して得たものであるという。

この事実からたまたま先日、マウリッツハイス美術館展に行って見た一幅の絵すなわち
ヤン・ステーン作「親に倣って子も歌う」を思い出した。
(「親に倣って子も歌う」の部分をクリックすると絵画を見ることができます)
絵画は、1668-1670年頃、当時のオランダで制作された風俗画(風刺画)である。
絵の題名を日本的に直訳すれば、「この親にしてこの子あり」となる。
子どもに煙草を吸わせている父親らしき人物は、作者自身の自画像らしい。この人物の
悪意のない満面の笑みからも、絵が表現したい事は、相当に深いのではなかろうか?

この絵画から直感的に感じた事は、最近私が課題としている「交感神経と副交感神経」の
バランスをとるための副交感神経の働きを強調しているのではないか?という事だった。
笑い、歌、飲酒、家族団欒、少し艶っぽい女性の仕草、鳥の巣箱の隠喩であるセックス等
絵画に描き込んでいるものは、副交感神経の働きを高めるものばかりである。
(煙草も少量だと副交感神経の働きを高める効果があるという説もある)

この絵画から見ても、中世における「子ども」の概念が、近代から見てかなり希薄で
あり、少なくとも、近代の概念と異なることは明らかだと思う。そこで私は大胆に
当時のオランダと現代の日本或いは先進国は、ある意味で共通する所があるのでは?
という仮説を立てた。当時のオランダは、世界貿易で発展していた。社会の変遷も
急激ではなかったか?そういう点で、現代と共通しているのではないかと思った。
ヤン・ステーンが、茶化しながらも描いた風刺画には当時の社会の深い悩みがあった?
現代も、様々なストレスに苛まれ、かつ様々な知識教養によって縛られ、副交感神経
によるリラクゼーションが効かなくて、昔日のオランダよりも更に厳しいのでは?
子ども中心過ぎて親が健康を害したら本末転倒?子ども中心も程々に!如何なものか
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

夏の東京'12 [閑話]

家族に関する野暮用を理由に、他の用件も兼ねて、4日間ばかり東京に出かけた。
東京の夏(立秋は過ぎているが酷残暑)に辟易してしまった。昨年7月下旬も行ったが
記憶力減退か?或いは、体力減退か?こちらに比べ、嫌な暑さを感じた。
我家も相変わらず暑いが、外出するとさわやかな風があり、それなりに涼味も感じるが
東京は、風と言っても熱風というにふさわしい。(市街地だけだと思うが)
昨日倉敷に戻って、夕方の涼風にホッとしながらバスを待っていたが、バスの廃棄ガスに
当った瞬間、「あ~そうだ!東京の風はこれと同じだった!」と思った。

その暑さにも関らず、しっかり散歩した。25-28の4日間で5万歩強だった。
NEC_0113昼のスカイT.JPGNEC_0112国際子ども図書館外観.JPG散歩中に撮った写真を掲載する。最初の写真は
珍しくもないスカイツリー(ST)。ST完成後初めて
の上京だから仕方なかろう。上野の東京文化財
研究所と寛永寺霊園の間の道路から撮った。
人も車も少ない通りである。其処に行くまでの
道路際に「国際子ども図書館」があった。横長の写真がその外観。1906年に
建設された帝国図書館の建物を再生・利用している。内外の児童書と
関連資料に関する図書館サービスを国際的連携の基に行う。2000年1月に、
国立国会図書館の支部図書館として設立され、2002年5月に全面開館したという。

私は、2002年5月末に当地に引っ込んだから、存在を知らず初めて出会った。
本好きの私を知っていて、神様が導いてくれたような気がする。寛永寺霊園に用が
なければ、滅多に通る道ではないと思う。
「国際子ども図書館」は、恐らく、諸外国からの要請もあって創られたのでは?
「東日本大震災」で示された日本人の助け合いの精神、道徳意識の素晴らしさなど、
様々な日本人における優秀さを学ぶ為に、諸外国の児童文学研究熱が高い?
その様な研究サポートも、大きな目的ではないかと思う。

日本自身としてのニーズは、子どもの本離れ、活字離れに対する危機感だろう。
確かな事は、日本が「東日本大震災」まで素晴らしかったからと言って、10年後
素晴らしさを維持している保障は何もないということである。今迄の日本人の
素晴らしさが、現代のゲームや政治、マスコミ、芸能界情報等から生れる事はない。
日本の昔話や児童文学が、素晴らしい人を育てたというなら、それは、穢れのない
幼い心に何か、深い感動と共に、刻み込まれた内容がよかったからだと思う。
幼心に最も大切な事は、周囲の人々の暖かく深い関心。金ではない。如何なものか
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

正義と懐疑主義の間 [閑話]

先頃、マイケルサンデル教授の「正義」に関する話が話題になった。哲学という
お堅い哲学という学問領域の話題としては、異例のブームだった。それは、現代が
何事も相対的で、何が真実なのか?正義なのか?分からない?懐疑主義に陥っている
から、それに対する一種の反動だったのだろう。しかし出版業界などが仕掛けた、
この発作的・反動的活動の成果は、組織的に、何か見える形で有ったのだろうか?
何か成果が有ったとすれば、その議論に出会って、真剣に取組んだ人々の心の中に、
今後とも、継続的に取組む意思が芽生え、ジワジワと成長していく事だと思う。

話は、チョッと横道に逸れる。
昔の日本文化は多層的であった。支配階層はお堅い考え方を尊重しても、町人文化では
固い考え方は、昔から「野暮」と相場が決まっていた。「粋」を最も、尊重した。
欧米は、文化は「上流階級」の専売の様に言われ(少なくとも現代日本ではそう解釈?)
最近の日本もそれに追従しているかに見える。欧米にも中流・下流の文化はあったが
いつの間にか尊重されなくなった?日本も、それを追従している?正に「猿真似」?

私は、日本には、バブル崩壊前位までは、上流・中流・下流など多層文化が存在していた
と思う。バブル崩壊によって、多層文化を生きた人々が、急速に力を失って行ったために
多層文化も急速に衰えたと思う。そして、その頃から「平成維新」の声が大きくなった。

「平成維新」は、今現在も言われており、橋下某などがわめいている。「昭和維新」
(15年戦争の中での暴力クーデター)を振り返ってみれば非常にハッキリしているが、
国民が熱狂して、「気が狂った状態」、「現実を冷静に把握できない状況」である。
「平成維新」も正に、そういう状況に至りつつあるのではないか?

明治維新の後も昭和維新の後も、日本は再び多層文化に戻った。それは、日本人が
戦争という熱狂の中でも、多層文化を維持する価値観を捨てなかったからだ。
バブル崩壊後の日本は、多層文化を維持する価値観を見失い、欧米の「上流社会志向」、
「悪の過剰主義」を見習って恥じる気配もない。日本社会全体が、システムによって、
欧米的に人々を操作し、そして自己も巻込まれて操作される仕組みの中に沈没寸前?
社会全体が、懐疑主義という無責任な思想に流され、何かに熱狂して、狂気の世界を
望んでいるのではないか? この様な時にこそ人々は、「己に勝つ」必要があるのでは?
如何なものか
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

個性と協調性 [閑話]

今日、イオンの中を歩いていたら、突然、女性の声が、耳に突き刺さった。
「今度は食べ放題だって?あんたは食べる事しか言わんね!」と、大変な剣幕だった。
見ると、話相手は、メタボタイプの十代前半?の男の子だった。時刻は午後二時前で
昼食を食べて間がないような時刻だった。最近、私は、メタボは万病の元という本を
読んでいたので、母親のイラツキが、理解できるような気がした。

丁度、今読んでいる本が、「悪い過剰」の社会問題をテーマにしているので、飽食という
「悪い過剰」の例を見たような気がした。今読んでいる本によると、生産技術の進歩は
「悪い過剰」でだけでなく、貧困や飢餓を無くす「良い過剰」にもなると指摘している。
しかし「悪い過剰」は、世界の一部の「上流生活」に憧れる庶民のストレス等から
派生した様々な悪習慣によって、再生産され、拡大・強化され、「良い過剰」は道遠し?

先日、モナコのヨットハーバーがTVで放映されていた。其処には世界各地から、大勢の
超資産家の超豪華ヨットを見物する観光客が、多数来ているという。そういう見物客に
インタビュしていて、見物客達は、沢山の超豪華ヨットを満足そうに見、語っていた。
ヨットというよりも、豪華客船に近い代物で、それらが沢山出入りしている様子は、景観
といえば、言えなくもないが、私に言わせれば「それが何ぼのもの?」と吐きたくなる。
こういうものを観光対象にするというのも、人に操作されやすい思考人間になっている?

私は、「個性」というのは、奇抜な服装や行動・態度などではなく、新聞・TVなどの
マスコミで、無責任なコマーシャル・評論家・作家等に操作されぬ確かな思考だと思う。
「協調性」や「和」というのは、そういった確かな思考を基本にして初めて意味がある。
若い人が、他人に操作されないように用心する態度を、「生意気」という。
そして、若者は、「生意気」ぐらいが丁度良いのである。

「健康志向」で、様々な活動テーマを掲げて、長期的に知恵を絞って継続することは、
社会との「協調性」を学びながら、「自分」というものを深く掘り下げる良い機会では?
品質管理活動が、従業員や顧客と協調しながら、経営者(そして従業員)が、真の企業の
目的、自己の目的を深く掘り下げるのと同調していると考えられる。社会も同じでは?
政治家と一般民衆と官僚が、社会の健全性を図りつつ、社会の真の目的や、民衆の目的を
明らかにするべきである。既に操作されており「悪い過剰」を追い求める政治家は
民衆によって排除されるべきだと思うが、民衆の健全性は大丈夫か?如何なものか
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。