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「おひさま」第5回 [思い出]

民放TVは、日がな1日、ACのご親切なフレーズが垂れ流される。NHKも「東日本大震災」の
影響か、肝心な情報は余り流されない。随所に、素晴らしく深い慈善心を持った芸能人などの
お見舞いのお言葉などが挟まれているために、そんな場面に思いもかけずたびたび遭遇する。
従って私などが、拝聴するのも恐れ多く、どうも最近は、TV拝聴恐怖症になった。
「おひさま」は、ACフレーズもお見舞いのお言葉も出てこない数少ない番組であるために
継続して見る事に決めた。私の父母が生きた戦前の時代を感じる事が、当面の目的である。

既に昭和8年(1923)の春を過ぎ、陽子(八木優希)は小学校5年生になった。
昭和8年(1923)といえば、日本が、国際連盟を離脱した年である。 さて物語の陽子だが
母の様態が悪く、学校行事の常念岳登山をためらうが、母に勧められて予定通り参加した。
今日は、陽子が常念岳の頂上を極めたころに、母・紘子(原田知世)が亡くなった。
地平線から立ち昇る旭日は、母が天上の人になることを暗示している。日の出を眺めながら
陽子は、母親が、地上の命の灯火から、天上の光へと切替ったのを直感した。そして
雄々しく輝く旭日にならって、自らの力で輝き、世界を明るくすることを誓ったのだ。

さて今日の画面で気になったのが、常念岳登山の子ども達の装備だ。肩から背中にかけて
肩幅よりも少し大きめ、丈は腰の下までのハーフコート並みの「縁取りした茣蓙(ござ)」。
胴に巻いた荷物(弁当や水筒?)も、覆える様になっている。首の所は襟ぐりがあり、襟の
紐を体の前に下ろし、腰の部分で茣蓙に通して、最後は腰に巻きつけて固定する様だ。
どうみても、雨具?防寒具?どうもコート風「縁取り茣蓙」は「みの」の変形版のようだ。
「みの」は一般に藁(わら)で作られるが、コート風「縁取り茣蓙」はイグサで作られる。
「みの」は、羽織のご先祖のようだ。昭和10年代まで生き残っていたらしい。(島根の民具)

寺田寅彦(1878年(明治11年)- 1935年(昭和10年))の随筆「日本の自然観」で、
「みの」が「バーバリーコート」よりも優れているという話を紹介したことがある。
(ブログ「2009-03-11自然観」)。昭和10年は、随筆「日本の自然観」を発行し、大晦日に
寺田寅彦が亡くなった年だが、翌年は、226事件、日独伊防共協定成立とつながる。

もう1つ、陽子の母・紘子の年齢であるが、当時、30代後半のアラフォーではなかったか?
髪形が大正ロマン風?私の母は陽子より12歳くらい年長だと思われるが、私の記憶に残る
母の髪形は、ほとんど紘子と同じ。56歳で亡くなったが、終生、同じ髪形だったように思う。
母も大正ロマン風の髪形がよく似合う美人だった。あまりに早すぎる別れ?如何なものか
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旧友を偲ぶ [思い出]

我が家では、今日はこの冬1番の冷え込みだったが、幸い晴天で日中は暖かだった。
今日は鏡開きであるが、妻が孫のところに行っているので、面倒だから省略した。
さて、植村達男君が逝って、早一ヶ月近く経ったが、本を探していて彼の本が見つかった。
最も初期の頃の作品、「本のある風景」と「神戸の本棚」である。

前回、2010.12.24のブログ「旧友を悼む」で、本好きの彼ほどではないものの、私も同様だった
から彼の懐かしい作品にふれたかった。しかしいくら探しても出てこない。大体、本を探している
時に出てこない事が多いのである。今回探している本も出てこなかった。要は整理が悪い?

彼の著作の中でも、「本のある風景」と「神戸の本棚」は、私にとって、特別の思いがある。
入社以降数年で地方に転出、工場勤務を十数年経験した後、本社地区に戻ったのが昭和58年
(1983)、その年の関東地区同窓会で、彼の「本のある風景」を勧められた。その時の、彼の
親しみのある眼差しが思い出される。「生活の歓び」が、あの優しさを生み出すのだろうか?

野呂邦暢は、“「本のある風景」に寄せて”という文章の中で、「‘生きる’と言う言葉が、私はあまり
好きではない。・・・中略・・・‘生きる’ことには抒情もへったくれもありはしないが、生活には抒情が
ある。抒情とは人生の歓びである。」、と書いてある。小島直記も「出世を急がぬ男たち」の 「本の
ある風景」という本 という章で、「生きる叡智、そしてよろこびとは何かを、さりげなくわれわれの
胸にしみこませるものがある。」と書いている。彼の眼差しは生きる叡智、人生の歓びとは何か?
を見つめていたのだろう。そしてそこから吸収したものを創作の中で、或いは対人関係の中で
あらわし、さりげなく我々の心に届けてくれたのだろう。

「神戸の本棚」では、“港が見える丘”という懐メロの歌詞の場所は横浜ではなく、神戸だった?と
書いてあったという記憶が残っていた。今回、改めて確認したら、この歌の作詞家・東辰三とほぼ
同時期に両人の母校・神戸高商(現神戸大学)で在籍していた古林喜楽(元神戸大学学長)の言
として紹介していた。この本を読んだ当時の私は、まだ横浜に住んで数年、「港の見える丘公園」
を知って違和感を持っていたのでなるほど!と感心したものである。今は神戸と横浜どちらも
長いご縁ができた。元学長の名が「ふるいことやし きらくにいこう」と言っている?
“港が見える丘”は全国にある。あまり拘る話でもない?おきらくに! 如何なものか。
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旧友を悼む [思い出]

高校時代の友・植村達男君の訃報を知った。ご冥福を祈り、追悼の小文を捧げたい。
◎ 年の瀬や 見送る人も また見送られ
彼とは、同クラス、正に同窓の間柄だった。彼はエスペラント研究会に所属していた。
現在も、日本エスペラント学会の監事を依頼されているとの事であった。
卒業後も、私が川崎・東京に転勤してから同窓会で親しくさせてもらっていた。

ご存知の方も多いと思うが、彼は随筆家として多くの著書・著作を残している。
小島直記の「出世を急がぬ男たち」に彼の著作が取上げられて文壇デビュしたらしい。
彼の著書の全容は知らない。私が知っているだけでも以下の書名が思い浮かんでくる。
1) ある情報探索人の手記(2001/09)
2) 時間創造の達人 ― 知的情報活用のすすめ(1996/10)
3) 情報氾濫時代を生きる ― 新しいタイプの専門図書館(1992/11)
4) コ-ヒ-、その知的香りのモザイク ― 私の情報整理学入門(1991/01)
5) 神戸の本棚(1986/10)、6)本のある風景(勁草書房1978年初版)
初期のものは、当時、私が、転勤直後で10数年振りの関東に慣れないでいた頃に
同窓会(東京支部)で親切にしてくれて、ご本人から直接入手した。
その後、書店の店頭で見かける度に、大体は購入してきた。

彼は、1941年神奈川県鎌倉市生まれ。お父上の転勤で昭和30年(1955)神戸に転居。
御影中学校、神戸高校、1964年神戸大学経済学部卒、住友海上(現三井住友海上)入社。
自動車保険料率算定会(現損害保険料率算出機構)調査役、住友海上情報センター長等を
歴任、その後、神戸大学東京オフィスコーディネータなどをされた。

同窓会ではいつも会う事ができるのを楽しみにしていたのに、50周年同窓会は欠席だった。
それで気にはなっていた。倉敷に引っ込んで8年半。皆の消息にも疎くなってしまった。
それでも、50周年記念誌には、様々な活動に関与している近況を知らせてくれていた。
記念誌の届いた直後の11/5に、メールを出したら簡単な返信で、少し心配していたが、
其の侭になって、まさかこんなに早くお別れすることになるなど思いもかけなかった!
こころ優しい植村君、いろいろと親切にしてくれて有難う! どうか安らかに!
◎ 友逝きて こころさみしき クリスマス
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思い出'10.10.20 [思い出]

今日は10月中旬最後の日。当地では10月上旬の7日間と中旬前半4日間、夏日だったが、
このところ収まっている。今年の猛暑も、いよいよ年貢の納め時だろうか?
昨日、柿を季語とした俳句から、遠い遠い50年以上昔の親父との思い出が甦ってきた。
恐らく中学1~2年の頃だと思う。法隆寺を訪れて、野原のような所で柿を食ったのだ。
その時に父が、「この辺りの奈良の柿はうまい。“柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺”」と
話してくれた。そのことだけを思い出したが、その時に父以外に誰かと一緒だったのか?
あの柿は、どうして手に入れたのか?サッパリ思い出せないのである。

人間の記憶の入力方法、記憶維持法、出力方法は、どうなっているのだろうか?ふ・し・ぎ!
先日の「ためしてがってん」で、認知症の人も、感情を伴った記憶は残ると言う。
この法隆寺で柿を食べた記憶も、“柿が美味しかった!”という感情が伴っていたが故に
記憶に止まったのかも知れない。だが昨日の柿の俳句でどうして思い出したのだろう?
父と行って以降、法隆寺には何度か訪れたし、2年前にも参拝したのに思い出さなかった。
少なくとも2年前の訪問時は、若い頃に訪れたときと雰囲気が大きく変っていた。

いま思い出して、父と一緒に食った柿は、どの辺りで食べたのか?ハッキリしない。
そこで、正岡子規が、いつ何処で、どのようにして、“柿食えば・・・”の俳句を作ったか?
「近代詩人1・正岡子規」潮出版社、で調べてみた。以下はその本を参照して書いた。
明治28年(1895)子規・29歳。この年日清戦争の従軍記者となり、帰国途中、5月17日
船上で喀血。23日神戸上陸。県立神戸病院入院。6月下旬危機を脱し、回復の兆し明確化。
その後、須磨保養院を経て8月25日松山到着。この時期、漱石と子規は同じ家に住んだ。
10月19日、松山を出発。広島、須磨(保養院)を経て、22日大阪到着。26日奈良到着。
東大寺、薬師寺、法隆寺などを巡る。そして「法隆寺の茶店に憩ひて」という前書きで
“柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺”の句作構想ができたという。
怪しげな私の記憶では、2年前に訪れた時の門前の立派な茶店でない事は確かであった。
昭和29年か30年(1955)頃とはいえ、子規の明治28年にあった茶店がなかったのか?
そういえば、幅の狭い粗末な床机(しょうぎ)に座って柿を食べた。“柿食えば・・・”の
俳句を教えてもらって俳句とは簡単なものだなぁ~と思ったものだ。私の俳句の師匠は
父だったのか?父は私に素晴らしい思い出を残してくれた。父は厳しい人であったが、
その優しさが今頃になってしみじみと偲ばれるのである。如何なものか。
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適度な刺激 [思い出]

高校時代の卒業50周年記念同窓会があった。最初に物故者への黙祷があったが、この一年で
また新たに鬼籍の仲間入りをした人々の中に、Y君の名前もあった。
高校時代、柔道部に所属していた元気モノだったけれど、病には勝てなかったのだろうか?
卒業以来、初めて会ったという人々も沢山いた。いろんな思い出話に花が咲いたが、当時の事で「君はあぁだった、こうだった、それに俺はこう感じた。」と、詳細な情景を含めて、話してくれた中には、私自身、全く覚えていないこともあった。自分に都合の悪い事は覚えていない習癖をもつ私だが、今となっては、そう都合の悪い話とも思えないのに、何故、記憶から欠落しているのだろう?そんな事も、日常、平凡な生活をしている私には、新鮮な経験だった。

50年ぶりに憧れのマドンナにも会えた。私にとってマドンナは何人もいたが、その一人である。
全部で190人の出席者の中で、女性は70人弱、在学当時は、男・400人、女・200人、全部で
600人、クラスは11組、1クラス約55名と言われていた。今回は若干、女性の出席率が良かった
のか?マドンナは、旧姓・MNといったが、会場を眺め回した限り気付かなかった。高一の時に
一緒のクラス(MN嬢も同じ)のK君が、わざわざ会わせてくれた。当時、K君がMN嬢に
憧れているとは知らなかったが、彼は、私が憧れていたことを覚えてくれていたのだろう。
本人曰く普通の“おばさん”となったMNさんは開口一番、「ごめんなさいね!こんなおばちゃんになって夢を壊してしまって。」といわれてしまった。高校時代の小柄で華奢な体格からは想像も
出来ない大柄でガッチリした体格に、会った瞬間には少し、そんな印象も無いではなかった。

50年ぶりの再会と書いたが、大学時代に、東京駅周辺でMN嬢を見かけたことを思い出した。
高校時代と違い、背が伸びてまるで別人の様になっていた。そのことをズッと忘れていたが、あれはやっぱり本人だったのだ。二次会は卒業時のクラス有志と繰り出したが偶然にもまたMNさんと再会。20名弱が、互いに自己紹介という形で、思い出を語り合った。一次会二次会で話を聴いて分かったのだが、高校卒業と同時に、カナダ、続いて米国と留学していた由。そういえば、当時、そんな噂を聞いたことがあったという記憶が、時をおいて薄っすらと甦ってきた。1つの出会いから、後になって色んな古い記憶が掘り起こされる。人間の頭はどうなっているのだろうか?

MNさんに限らず、50年という歳月を越えて、互いの濃密な人生を、淡々と語りあう中で、刺激が言い知れぬ心地よさを伴って、脳へ、心へ、全身へと拡がってゆく。同窓会は、このような適度な刺激が如何に大切かを教えてくれているように感じた。如何なものか。
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「ゲゲゲの女房」とセータの思い出 [思い出]

先週末から今週にかけて、「こみち書房」の常連客で水木のファン・小林太一(鈴木裕樹)が
ラブレターの件で気まずい思いをする場面があった。その件で同僚の土井真弓(菊里ひかり)が
「こみち書房」の女主人・美智子(松坂慶子)に相談に来た時に、折悪しく太一も居合わす。

まあ、その話は「ゲゲゲの女房」のメインではない話なのだが、チョッと私が気になったのは
太一(鈴木裕樹)が着ていたセータだ。左側だけの二の腕の処に、二本の白い線が模様として
入っている。現代だと何の違和感もないが「ゲゲゲの女房」の新婚時代(1961)頃には結構、
斬新なデザインだったのでは?衣装スタッフか誰かに、この種のセータに感慨があったのでは?
私にもこの種のセータ?に思い出がある。私が中学生の昭和30年(1955秋?)、父が東京出張
の土産に、これと同様のセータを買って帰ってきたのである。(この件は以前ブログに書いた?)
当時、私の第一感は「常識外れでオカシイ!」だったが、父親から流行の先端だからと説得され
表に着てでたら、近所の腕白どもに随分とからかわれた覚えがある。いろいろ言われたが、
煎じ詰めると、「毛糸が足りなくて、苦肉の策でそうなったのだろう?」、と言うのである。
私のセータは、太一のものよりも念が入っていて、地色が緑系グレー、腕の2本の模様が白ではなく
エンジ色と濃紺の二色の組合せ、かつ、太一のVネックではなく、ポロシャツの様なたて襟付きだった。

太一の時代よりも5年以上早く、かつ、当時はテレビもなく、流行の伝達も遅かった時代に、
神戸で当時、最新流行のデザインを着用した事は、今となっては何かうれしい思い出だ。
父は建築美術・デザインを相当に勉強していたようだ。父の世代は大正ロマンの直接の担い手
ではなかったがその雰囲気を受け継いで、斬新なデザインなどには鋭い感覚を養っていた?
その感覚が、アメリカ発のデザインを気に入って息子への土産にしてくれたのだろう。

あの当時には、ブツブツ文句を言いながら着ていたように思う。
そのセータ?を着た写真があったのだが、現在の我が家には見当たらなかった。それ以後、
父は私の着るものを独断で購入せず、いつも一緒に行って買ってもらった?従って、
その後は、こんな思い掛けない服を買ってもらった記憶は無い。我家は決して豊かな家庭では
なかったが、今思うと、両親は私のことを大切に思っていてくれたのだと、改めて感謝する。
「ゲゲゲの女房」の衣装スタッフか誰かに、このセータの思い出があるのか?どうか?
聞いてみたいような気がする。如何なものか。
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国際婦人デー100周年 [思い出]

今年で国際婦人デーが100周年を迎える。1904年(明治37年:日露戦争勃発)3月8日の
米国婦人参政権運動を記念して、1910年にデンマークで行なわれた国際社会主義者会議で
「女性の政治的自由と平等のためにたたかう」記念の日としたことが始まりであることは
昨年の同日のブログでも書いた。1910年(明治43)には、個人的に特別の思いがある。
今年は亡き母の生誕100周年でもある。母は私が社会人になって間もない頃に亡くなったが
日本女性解放の歴史を、母の一生と重ね合わせて見るとき、それは机上の空論ではない
生々しい様相を呈してくる。母は、同世代の女性としては極一般的な人だと思うだけに
“日本女性解放の100周年”という言葉には、多彩で奥行きのある状況が見えるのだ。

女性解放の問題は、参政権や男女機会均等などの形に現われるものよりも、無形のものに
難しさがある。男女の区別ではなく男女差別は、我々の生活の中に深く根ざしているから
明確な意識もなく相手を傷つける。傷つけられた女性が強くて強力なコミュニケーション能力を駆使
できれば、現代では道を切り開いて行けるだけの様々な法的整備は日本でも出来ている?

昨日の「特上カバチ」というドラマを、ひょんなことから初めて見た。
今回のキモは、セクハラの定義。“セクハラは被害者の主観で決まる”ということだ。
新米の田村 (櫻井翔) は、安易な自分の解釈でセクハラの被害者に迷惑をかける。
この件は、田村の必死の努力で、何とか一件落着となるが、被害者は退社することに。
所長の大野勇(中村雅俊)は、依頼人の気持を汲めなかった田村に「人間失格」といった。

所長・大野の求めるような行政書士であれば、平凡な日本女性の解放を援助できる。
しかし、それは今でも理想論に近いのではなかろうか?
昨日の「特上カバチ」というドラマは、日本の風俗・習慣上、女性に不利な‘セクハラ’を
題材にして、平凡な日本女性の更なる解放の必要性を物語っているように思う。

男女共に、強くて能力があれば、多少の荒波にもくじけることなくまた再挑戦していける。
今回の「特上カバチ」のセクハラをはじめ、女性解放問題、いじめ、若年ホームレス等
様々な問題に不可欠なのは、大仰なパフォーマンスやスタンドプレーではなく、強者の側の優しさ、
共感ではないか? 金持ちが札びら切って自己の力を誇示し、またそれに追従して余禄に
預かろうとするさもしい強者の群れが、平凡な人々の不満を誘うのである。如何なものか。
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羊日(ようじつ) [思い出]

今日は俳句の季語で羊日(ようじつ)とも呼ぶ。仕事始めの日である。地方では、農作業や
山仕事を形だけ行って祝う風習があるらしい。午後の散歩では野焼きの匂いが随所でした。
刈り取った田んぼのあちこちが黒くこげていた。大半は午前中に終えていたのだと思う。

◎ SJ(スロージョギング)で 野焼きに気付く 羊日かな

今朝の新聞で、正月恒例の“箱根駅伝”の総合結果がまとめられていた。私自身、全くの素人
であり、かつ余り興味もないのだが、“箱根駅伝”で私にとっては新鮮だった思い出がある。
数十年前、関東方面に転勤して最初の正月明け・仕事始めの日のことだった。今はどうか?
当時の仕事始めの日には、ホールに集まり皆で年賀の挨拶を交わした後は、各職場でお神酒と
おつまみが出て、ほろ酔い加減になった頃(正午前)にお開きとなり、三々五々初詣などに
繰り出したものである。

その職場でのお神酒とおつまみでの小宴会の時に、事務の女の子が、得意げに“箱根駅伝”の
その年の実績から、過去のあれこれの記憶に残るような名場面のことを話していた。周りの
仲間も、多くは湘南沿線に住んでおり、みな詳しいので盛り上がっていたが、私は蚊帳の外。
まだ高校でたての女の子(高校のテニス部で全国大会には出場実績はあった)が、何でそんなに
“箱根駅伝”に詳しいのか?咄嗟には理解できなかったが、良く聞いているうちにわかった。
彼女の家は、箱根駅伝のコースの近くにあり、ご近所、親戚など含む家族全員が、“箱根駅伝”
を正月の一大イベントとして楽しんでいたのだ。

それで思い出した事がある。私の姉も夏の全国高校野球については、滅茶詳しい時期があった。
甲子園に通い詰めていた高校時代である。その当時住んでいた阪神間では、夏の甲子園には
また特別の思い入れがあった様に思う。家族、知人、そして地域の人々ぐるみで楽しめるもの、
それが、皆を夢中にさせるのではなかろうか?

さて今年の駅伝であるが、復路・優勝の駒大が健闘した。また青学大が、昨年の33年ぶり出場
だけで満足せず、41年ぶりの1桁台の順位(8位)になったのも素晴らしかった。日大は、史上
初の出雲駅伝と全日本大学駅伝を制したチームのシード落ちという不名誉な記録を樹立した。
箱根駅伝の外国人枠1人という制約のためか? 今年の経験をバネにまた頑張って欲しい!
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人生の完成? [思い出]

前に、五木寛之の「林住期」を読んでブログ (2008.03.19-20) に書いたことがある。
インドで生み出されたライフサイクルの四住期 (学住期・家住期・林住期・遊行期) で
‘遊行期’に関しては、その時には単に人生の終末期という程度にしか考えていなかった。
ところが年のセイか最近、親父の最も尊敬していた空海(弘法大師)のことを思い出し、
親父が晩年親しんだ四国遍路との関連から、‘遊行期’について少し思うところがあった。

空海は、宝亀5年(774)讃岐の現在の香川県多度郡・屏風が浦に生まれ、835(承和2年)
高野山にて入定した。62年の生涯である。804(延暦23年)最澄らと入唐、最澄は1年後、
空海は2年後に帰国した。当時、留学期間は20年間と定められていたという。1,2年で帰国
する事は違法であり罰せられても仕方なかったというが、学習成果を説得できればよかった
らしい。最澄も空海も有り余る才能でその関門を通過し、以後仏教界の重鎮として活躍した。

四国遍路は空海の悟りを開いた修行の道と言う事になっている。そのような期間が何時頃に
あったのか?司馬遼太郎の「空海の風景」によると、空海の生涯は当時の同時代資料で相当
詳しく知る事ができるという。だが31歳で留学するまでの7年間だけが空白に近いとのことだ。
空海も、その時期に、阿波の大滝嶽、土佐室戸崎で修行したことについて言い残していると
いうことだが、四国遍路のような広範囲の修行をしたかどうか?明らかではない。

空海の事跡から四国遍路をたどると、それは青春期の‘学住期’における活動であった。
現代では年齢に関係なく、若い人でも人生に迷いを感じた時に、四国遍路に詣でるという。
現代的四国遍路は、直接的には、 ‘遊行期’と結びつかないように思われる。
しかし四国が発祥の八十八箇所巡りという遍路旅は四国だけでなくこの岡山の至る所に在る。
恐らく瀬戸内海の島々には遍く、八十八箇所巡りがあり、老人達が巡っていた事が偲ばれる
のである。この“八十八箇所巡り”の普及は、単なる流行の域を超えて人間のライフサイクルと
密接な関係があったからではないだろうか?空海の時代と現代との千数百年の時空に育った
四国遍路は空海の教えを現世において実現するために始められたのだろう。修験者のような
専門家を育てるのではなく、庶民のライフサイクルにおける‘遊行期’即ち人生を完結させるに
相応しい活動として育まれてきたのではないだろうか?“八十八箇所巡り”や“遍路の旅”は
長い歴史の積重ね、膨大な数の人々の知恵と努力による協力の賜物である。その根底には
人々の人々による人々のための 「人生の完成への祈り」 があったのだろう。如何なものか。
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追憶091110 [思い出]

散歩前、素振りをして、ゴルフクラブを家の中に置きに入った間に、雨が降り出してきた。
今日は「技能の日」。昭和45年(1970)に技能五輪国際大会(国際職業訓練競技大会)が
日本で初めて開催された時の開会式が11月10日。それを記念して「技能の日」となった。
雨の中、傘差し散歩をしながら、何故か遠い昔のことを追想していた。私の人生など実に
心もとないもので、大河に浮かぶ一片の木ノ葉のように、当てどもなく流されてきたと思う。
小学生の頃には将来の事など何も定まっておらず、大学はおろか高校に進学できるかどうかも
私には何の目途もなかった。家族を始め周囲の仔細な観察で読めたかもしれないが、私には
そんな才覚もなかった。身体が弱かった私は、親から常に、「身体さえ丈夫だったら、土方
でも何でもして生きていくことができる」、と健康であるようにと激励され続けた。

小学校の卒業の時に優等賞をもらったが親から喜ばれた覚えがない。それかあらぬかわから
ないが、何時の頃からか私は親から「勉強しろ」と言われたことがないと思い込んでいた。
しかし今日、私が独楽回しに熱中していた頃に、母親が、「独楽回しに熱中する位、何々を
すればねぇ!」、と慨嘆したことを思い出した。‘何々’は勉強だったのか?それとも何か
手に職を持てるような何かの“技能”だったのかは分からない。そしてついに思い出した。
上述の「身体さえ丈夫だったら、・・・・云々」の後に続く言葉を。

それは、「お前は身体が頑丈じゃないから、頭で稼がなければならない。」というフレーズ。
随分と長い間忘れてしまっていたのは、覚えておきたくない私なりのトラウマが在ったのか?
今思えば、親の期待は、小学校の優等賞など問題にならないような高度なレベルだったのでは
ないかと気付いたのだ。何せ8歳年上の姉は、中・高・大学一貫の私立学校で、卒業式の送辞
・答辞を卒業まで通したという人だから、弟の私に相当以上の期待がかかって当然だった。

私は小さい頃から身体が弱く、親が甘やかせたから我儘な人間になった、と言われてきた。
“三つ子の魂、百まで”という諺もある。私は周囲への気配りも疎かにして、多くの人々に
迷惑をかけて生きてきたし、今でも皆に迷惑をかけながら生きている。それを思う時には
痛恨の極みで、生きていくのが苦しくなる。しかし私は‘我儘’な性格だから、すぐに忘れ
また明るい気持で生きていこう、天に任せて流されていこうと思う。‘我儘’とは、私には
「我の在るが儘」、それは全ての人に当てはまる“生きる源泉”? 如何なものか。
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