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林芙美子とは? [物語]

昨日、一昨日と、林芙美子の一片の詩を元に、幸福について書き記したが、
振り返ると、私の思い込みの我田引水かも知れない。 そこで無知な私なりに
林芙美子の超略年譜を作成して彼女の人柄を推測し、詩の解釈の当否を検討した。
〔林芙美子の超略年譜〕
明治36年(1903) 12月31日誕生。出生届は鹿児島市である。
大正5年(1916) 尾道市に定住。この頃の様子「風琴と魚の町」(昭和6年発表)
大正9年(1918) 文才を認めた訓導の勧めで尾道市立高等女学校へ進学
大正11年(1922) 19歳、女学校卒業直後、遊学中の恋人を頼って上京
大正12年(1923) 卒業した恋人は帰郷して婚約解消。9月・関東大震災
 尾道や四国に難を避けた。この頃からの日記が『放浪記』の原型になった。
大正13年(1924) 親を残して東京に戻り、再び3人の生計を立てた。
大正15年(1926)23歳、手塚緑敏と結婚。―――放浪時代の終結
昭和3年(1928) 10月から翌々年10月まで20回、自伝的小説『放浪記』を連載
昭和5年(1930) 昭和恐慌の中『放浪記』と『続放浪記』で芙美子は流行作家になった。
 印税で中国へ一人旅した。講演会などの国内旅行も増えた。
昭和6年(1931) 朝鮮・シベリヤ経由でパリへ一人旅。ロンドンにも滞在。翌年帰国
戦後の執筆活動も活発 代表作・『晩菊』(1949)『浮雲』(1951年)等
昭和26年(1951) 心臓麻痺で急逝

昨日、一昨日に取上げた「詩」が、林芙美子のいつ頃の作なのか?良く分からず、
年譜を編纂すれば見当が付くかと思って作って見た。彼女の50年弱の生涯を振り返ると
誕生時から続いた不運の時代が、人生の半ば(23歳)に終結している事が印象的である。

「放浪記」第二部文末に、昭和5年(1930)に書いた「放浪記以後の認識」という
文章が挿入されている。そこには“頃日禅なるものを始めたが、自分だけの悟りを開く
には前途はるか”とあった。艱難辛苦を乗越えて、女学校を自力で卒業した女傑では
あっても、当時まだまだ私の「詩の解釈の心境」に至っていない事が読み取れる。
しかしそこにはまた「赤毛の娘」という言葉がある。これはひょっとすると、
詩の原稿を贈った村岡花子の翻訳小説「赤毛のアン」からの連想ではないか?
従ってこの頃に創作した「詩」とも考えられる?そうだとしても当時30歳前である。
これらを考え合わすと、当時すでに潜在的に「詩の解釈の心境」だったとしても
おかしくない?その後の作なら、禅の進境によって十分妥当では?如何なものか
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TVドラマと私 [物語]

今日は冬至である。“私にとって、TVドラマとは何か?”という事を考えたキッカケは、
2012-11-08のブログ“「純と愛」第34回・花婿の脱走” 及び2012-11-09のブログ
“「純と愛」第35回感想・NHKの意味”に寄せられたコメントだった。これ迄
TVドラマの感想を、私なりに正直に書いてきたが、問題があるのか?という反省である。
反省の結論は書いていない。今後、気をつけるべきは気をつけたいと思う。

この反省をする上で、気付いた事は、 「私のブログ」に関して、読者の考え方と
「私のブログ」に対する私の考え方と、大きく異なる部分があるという事であった。
そこで“私のブログは、読者にとって何なのか?”という事を検討した。
そして、そのテーマの延長線上に、“私にとって、TVドラマとは何か?”という事も
十分に検討することが重要だと思われたので検討した。

読者の「私のブログに対する考え方」が各自異なり、私とも異なる事は当然である。
私にとって、「私のブログ」はかけがえない一人称の「私のブログ」である。しかし
読者にとっては、その他大勢のブログの1つで、行きずりの他人事に過ぎないのでは?
もし仮にコメントを書いてくれた人が「私のブログ」を二人称の「あなたのブログ」と
して、受止め書いてくれたのなら、私は大変に幸せである。我々は様々なものごとを
毎日経験しているが、多くのものごとは他人事で、自分とは深い関係を持たない。
或いは持とうとしない。それは、膨大な情報を、いちいち親身に考える余裕がないと
いう事情と共に、自然科学や技術などの発達によって、自分と切離してものごとを
客観的に捉える事が正しいという習慣ができた事などが原因だと思う。

さて次に“私にとって、TVドラマとは何か?”であるが、私のブログに感想を書く対象と
なった過去のTVドラマはすべて、私にとっては特別のものであったといえる。
それは私の目を開かせ、心を揺さぶる大変に貴重な体験であったという事である。
(但し「純と愛」は35回以降、残念ながら、私の心を揺さぶる事はなくなったが。)
人生で大切なのは、自然科学や理屈で解明できる様な人まね、受売りの経験ではない。
食う為、生きる為、金の為の体験でもない。自分自身の全体を揺るがす圧倒的体験だ。
そういう体験を積み重ね、自分自身の本質に近づく事が、生きる事の意味である。
私にとっての「私のブログ」とは、小さな体験でも、心を揺すぶる体験に基づくことを
書く様にと心掛けている。(不十分な体験もあると思うが)
この類の体験から生じた感想は、書かずに置けない事もある。如何なものか
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PRICELESS・第4話と感想 [物語]

PRICELESSというタイトル命名の理由は今だに、良くわからないが、
“あるわけねぇだろ、んなもん!”という副題は、今回も健在で、縦横に活動した。
まず第1が、ミラクル魔法瓶社長・大屋敷統一郎(藤木直人)が、優秀な取引先である
相模川製作所との契約を突然破棄する様に、模合統括本部長(中井貴一)に命令した事。
第2が、無理難題の3,000個の携帯炊飯器発注を受けたら契約継続をしても良い、という
社長の言葉を真に受けて、摸合がそれを相模川製作所の社長(石井正則)に伝えた事。
第3に相模川製作所の臨時雇用で働く事になっていた金田一(木村拓哉)が、この話を
聞きつけ、様々な人間関係の協力のもと、不可能な受注を可能にしたこと。
第4に大屋敷社長は、相模川製作所が立派に約束を果したにも拘らず、なお相模川製作所
との契約破棄を摸合に迫ったこと。
第5に、それを聴いた摸合が、決然と断を下したこと。
第6に、立派にケジメをつけ、会社を辞めてきた摸合を、妻や子が、追い出したこと。
第7に、摸合が、貧乏長屋?の「幸福荘」に来ること。

以上、第4話には、7つもの“あるわけねぇだろ、んなもん!”がより合わさって構成され
ていたのである。従ってこの物語は、現代の“おとぎ話”と言ってしまえば終わりだ。
しかしこんな荒唐無稽な物語をより合わせて、何か言いたい事があるのではないか?
それが、主題の“PRICELESS”という言葉に込められているのではないか?
“PRICELESS”を辞書で引くと、1.“非常に高価な、金では買えない、とても大切な”と
いう類の意味と、2.“とても楽しい、とても面白い、信じられないほど馬鹿げた”という
意味が書かれている。2.の方の意味合いは、“あるわけねぇだろ、んなもん!”と、
同類に近いだろう。1.の方はどうだろう。非常に高価なものや事はこの世の中に
いっぱいある。だから主題と副題は一致せず「非常に高価なものや事」の物語ではない?

そうすると、この物語は、“とても楽しい、とても面白い、信じられないほど馬鹿げた”
語り口で語られた「金では買えない、とても大切なものや事」の物語なのだろうか?
この事を、主題と副題の意味を合体させて考えると、「金では買えない、とても大切な
ものや事」は、“あるわけねぇだろ、んなもん!”というのが、本物語の主張という事?

私は本物語の主張を以下の様に考えた。“あるわけねぇだろ、んなもん!”というのは
反語である。「金では買えない、とても大切なものや事」は“あるわけねぇだろ”と
思っていたが、発見して、“でもやっぱりあった!”と、私には聞こえるのである。
「金で買えない、とても大切なものや事」等なく、金だけを大切にする現代人も多く
なったが、ある訳ない様なモノやコトの中に、とても大切なモノやコトがあるのだ。
そのことを、この物語は、皆に知らせたいのではなかろうか?ある訳ない様なモノや
コトとは、例えば、金田一がクビになり、自宅マンションも爆破されて野宿した時に
段ボール箱を貸してくれたホームレスのげんさん(五頭岳夫)の行為(好意)である。
その事を忘れずげんさんを気遣い、病気と知って炊き出しなどの食事を運んだ金田一の
行為である。また金田一がげんさん等の協力を得て、3,000個の携帯炊飯器を期限内に
作り上げた話の中にある。これは最初から諦めず、当って砕けろと頑張った処に意味が
あった。今回は前回のラーメン屋の場合と違って、具体的に評価できる成果を出したが
物語のポイントは成果の有無ではない。如何なものか
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純対梅ちゃん先生比較論と生きる意味 [物語]

純(夏菜)と梅ちゃん先生(堀北真希)の比較にどんな意味があるのか?
時代背景も違う。梅ちゃん先生は昭和20年~37年の話。純と愛は現代の同時代的話。
従って考え方も違うから、比較には何の意味も見出せないのだろうか? しかし
「純と愛」物語で、トルストイの箴言と思しき言葉が度々出てくる。例えば
“この世には不完全な男と、不完全な女しかいない”などという言葉である。
このフレーズが本当にトルストイの言葉か否かは知らないが、彼自身の夫婦生活での
実感としても、あったのではないか?と、想像できる節もある。

それは兎も角、このフレーズを脚本家が多用するのは、それが肯定的であれ、否定的
であれ、この考え方が、時代を超えて人間の生き方に影響を与えると思ったからだろう。
大トルストイが生きた年代は、1828(文政11年)-1910(明治43年)。梅ちゃんよりも
はるか昔に生きた人である。従って梅ちゃんとの比較にも意味があると思う。

本題の二人の比較だが、端的に父親との関り方を比較対照したい。まず梅ちゃん。
梅子は、医専時代に、友人とのダンスパーティを企画・開催した時に、父親に参加を
要請したが、行かないという。その時、幼い頃の木登りの事を、建造(高橋克実)に
語りかけて「自分たち子どもは、お父さんに見守られているから遠くまで登れた」即ち
お父さんの心遣いによって成長できたのだと説得し、父親の心を和らげたのである。
建造は、昔かたぎの頑固者で、次男・竹夫(小出恵介)は、反抗して父親の敷いた
レールに乗らず我が道を進んだ。学生がダンスパーティなどやるべきでないと反対の
父親に対して、純の様な対応をするなら、建造を更なる頑なな父親にする事は容易?
純は、兄・正(速水もこみち)の結婚式当日において、父・善行(武田鉄矢)に心ない
言葉を投げた。善行との幼い頃の事を、愛(イトシ)の“父親の愛”という解釈まで含め
思い出しながら、「あんたには愛情なんか1つもないから!」と自ら否定してしまう。

梅子と純は、同じ幼い頃の思い出でも、梅子は誰に教わるでもなく善意の解釈をし、
純は、愛(イトシ:風間俊介)の善意の解釈の助けも考慮せず、悪意で人間関係を壊した。
少なくとも、今迄の「純と愛」物語は、二人のナルシシズムという閉鎖的人間関係の中に
閉じこもっていると言わざるを得ない。こういう生き方は人間の生きる意味を理解しない
ものだし、或いは、自分たちだけではなく、周りの人間をも不幸にするのだと思う。
純と愛(イトシ)は、まだ20才代。従って何らかの奇跡が起こって生きる意味を理解し、
真っ当な人間に立ち返ることもあるだろう。しかしその確率は、宝くじに当たる確率?
奇跡を物語る事など簡単である。しかしそんな物語をNHKが語る事は、多くの視聴者に
間違った生き方を示唆してしまう可能性大である。それはNHKがしてはならない事だ。

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「純と愛」第35回感想・NHKの意味 [物語]

第35回を見て、「純と愛」の物語は、「子捨て物語」と位置づけた。
純(夏菜)は父・善行(武田鉄矢)に、愛(風間俊介)は母・多恵子(若村麻由美)に
捨てられたという設定だと思う。古今「子捨て物語」は多いが、これ程情けない物語は
少ないと思う。捨てられる時期が、20才代という非常に中途半端な時期だからだ。
従って、この物語は「半端もの」? 実に、実に、情けない物語である。

話の展開からして、「純と愛」は、捨てられたという被害者意識の元、
“二人ナルシシズム”の世界に浸って夢に邁進するという筋書きなのではないか?
“ナルシシズム”、“エゴイズム”は、反社会的、反生命的な存在様式である。
親子関係が10代~20代で破綻するのは、最早、親の責任だけに帰する事はできない。

今日、純が、善行と対立する中で、少女時代の動物園で迷子になった時の事を語って
父親の愛情を確かめ様としたが、善行が頑な態度をとった為に、純は切れてしまった。
「あんたには愛情なんか1つもないから!」というのは余りに酷すぎる。
親に向かって言うべきではない。売り言葉に買い言葉、
善行も「お前なんか生れてこん方が良かった!」と、言ってしまった。

この善行のひどい言葉には、もう1つ理由があった。愛(イトシ)の観相の言葉である。
善行や剛(渡部秀)の観相結果は兎も角、晴海(森下愛子)の観相の結果が悪かった。
初対面の母親に、いくら純がけしかけたからと言って、野獣に譬え、父親との結婚を
後悔している等と言うだろうか?そして愛(イトシ)の観相において最も問題となる点は、
良い所が一つも見えない事である。どんな人間にも良い所と悪い所がある。人間の本性等
そう簡単に決め付けられるものではない。長所、短所を総合的、重層的に考慮すべきもの
ではなかろうか?それなのに、一方的観測だけを丸信じする純の頭もどうかしている。

純の善行への言葉も、善行の純への言葉も、言ってはならない言葉である。
こんな言葉を、20代の子どもと50前後の親が交わすというのは、余程、変な人たちだ。
こんな少数派の異常性格者を中心に据えて、NHKが物語る値打ちがあるのだろうか?
奇を衒う「文学賞」作品や、俗文学、あるいは売れれば何でもありの民放番組なら知らず
NHKのしかも朝の連ドラで取上げるべきものなのだろうか?大変に疑問である。NHKは、
国民から毎月大枚の放送料を徴収している。それはこんな俗悪番組を作る為ではない!
社会風紀を乱し、健全な青少年の育成を妨げるこの種のドラマを止めろ!如何なものか
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「純と愛」第34回・花婿の脱走 [物語]

今日の「純と愛」物語は、純の兄・正(速水もこみち)の結婚式に絡んで、
純(夏菜)と愛(風間俊介)とが、また“縒り”を戻したという事と
“花婿(正)の脱走”劇だった。従来のパターンでは、花嫁の脱走だった。
お腹の大きい彼女(マリア:高橋メアリージュン)の出現では絵にならない?
ドラマ直後の「あさイチ」で有働由美子が“残された花嫁の気持ちを考えた”とコメント。
それに対して、井ノ原快彦は、“大人としてはね!”と、シャレた応答をしていた。

兄が、生れてくる子どもに対して責任をとるという事で、めでたし!めでたし?
純は、大脱走を大手を振って喜んでいたが、井ノ原の言葉を借りれば、純=子ども?
“純”というよりも、“単純”と名付けた方が当っているのではないか?

私はこの「純と愛」というドラマを見ていて、何故、こんなに人々がいがみ合うのか?
何故、こんなに親子がいがみ合うのか?従順だった正は、大勢の人々に迷惑をかける
結果となる様な「花婿の脱走」を、何故やるのか?どんな特別な理由があって
従来のNHK連続テレビ小説には不似合いな、こんな展開をするのか?疑問である。

生物は、エントロピー増大の法則に反して、動的変動の隙間で生きている。生物は、
ただ欲望のままに生きているのではなく、生存の為に生物は相互扶助しているのだ。
この物語の登場人物は、井ノ原のいうごとく、20才代でも子どもかも知れない。
しかし愛の両親(多恵子:若村麻由美、謙治:堀内正美)や純の両親(善行:武田鉄矢、
晴海:森下愛子)は、子どもとは言えないだろう。彼らを一方的に「悪」として
切り捨てるのなら、人間とか、社会の本質を増々隠蔽し、社会を混乱させるだろう。
そうした隠蔽社会は、最早、生存の為に必要な生物の相互扶助は育たなくなるだろう。

こういう大人たちを軽蔑し、切り捨てて自分達の素晴らしい社会を築くというのか?
政治の世界で“維新、いしん”、“世の中の洗濯”などと騒ぐ輩がいるが、まるで
脚本家も、その同類の様に見えてくるが、どうなのか?言葉によって
「白を黒」と言いくるめる事は一時的に可能だ。しかし言葉の本質は相互理解である。
ドラマが、その言葉の本質をないがしろにして、政治的に活動するのは大問題だ!
情報社会の中で最も大切な国家情報機関が、自分達の利己的な考えから密かに国民を、
あるべからざる利己的人間に洗脳しようとしている?
NHKは、反社会的集団となろうとしているのか?如何なものか
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プライスレス&世界に一つだけの花 [物語]

昨夜、木村拓哉扮する金田一二三男の物語「プライスレス」第3話を視聴した。その感想
を書く。初回から視聴していたが、物語の意図が今ひとつ分からなかった(私は鈍い?)
物語を見ていて、“あるわけねぇだろ、んなもん!”という副題はよく理解できた。
二三男は異母兄・大屋敷統一郎 (藤木直人) にいわれのない嫌疑をかけられて、会社課長
から一転、首になってしまう。元々貯金等していなかった二三男は、野宿生活?幸いにも
課長時代に善根を積んだお陰で貫太 (前田旺志郎) 、両太 (田中奏生) 兄弟の祖母・鞠丘
一厘(夏木マリ)が大家の「幸福荘」という貧乏アパートで暮らせる様になる。
また二三男の嫌疑がでっちあげである事を証明しようとした元同僚・経理の二階堂彩矢
(香里奈)も同様に首になった。彩矢の金銭的頼りの株も暴落、文無しで「幸福荘」へ。
二三男は、一日500円の家賃を稼ぐ毎日の中で、貧乏暮らしを楽しんでいる様に見えた。
だが「プライスレス」という主題は、未だに良くわからない所があった。

第3回二三男は安定収入を図り、ラーメン屋「青春屋」に雇われ、店主・佐倉(木村祐一)
の為に一所懸命、繁盛する様に頑張った。それに、彩矢や貫太・両太兄弟も協力した。
しかし店には客は来ず、佐倉は心臓の持病の為に店を閉めるという。二三男は、佐倉に
本気のラーメンをつくる事を依頼し、満員の客で有終の美を飾ろうと企画。佐倉も同意し
閉店の日には素晴らしいラーメンが出来上がった。しかし皆で精一杯頑張るも、結局は
誰も来店するものはなかった。二三男は退職金としてくれた一万円で、協力者にご馳走。
二三男の元上司で、二三男の疑惑を晴らせる立場に居ながら、口封じに本部長に昇格した
模合謙吾 (中井貴一) が、最後に来店。昇進祝のビールを飲ませた二三男は満足そう!
しかしそれだけでは、まるで“骨折り損の草臥れ儲け”を絵に書いた様な話である。

だが、今朝のNHK「あさイチ」で、最近の30年間で最も聴かれた曲のナンバーワンに
「世界に一つだけの花」が選ばれているという話を聴いて、何だかその辺に意味がある?
と、直感した。この歌に寄せる皆さんの意見を聴いていると、涙が出てきた。例えば、
病気の子どもを抱えて悪戦苦闘していたお母さんが、この歌を聴いた時の感想の素晴らしさ。
「病気で苦しんでいる子どもも、精一杯に咲いている。その我が子に、私は苛立ち、責める様
な気持になっていた。」というのだ。この気付きで、お母さんの子どもに対する気持が、
180度転換され、現状を明るく前向きに受け止められる様になったろう事は明らかだ。
幸せは、量的に測って人と比べる様なものではない。「プライスレス」なのである。
幸せは、一人一人違う花を咲かせることに懸命になっているプロセス?結果ではない!
No.1にならなくてもいい もともと特別なOnly Oneなのである。 如何なものか
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「純と愛」第29回・揺れる純の心 [物語]

今週(第5週)の御題「北風と太陽」は、揺れ動く純(夏菜)の心を象徴しているのかも?
なぜ?純は悩むのだろうか?それは純が、愛(風間俊介)を恋人と思っているからだろう。
しかし単なる恋人なら、嫌気がさせば別れてしまえばいいのに、拘っているのは何故?
その理由は、純の夢(人を幸せにする魔法のホテル)が大いに関係している。と私は思う。
純の夢を叶える為には、狭い了見ではいけないだろう。人々を抱擁できる暖かさが必要。
従って純が夢を育てていく為には、多くの人々と係わり合い、共存して行く事が大切だ。
純が、恋した愛(いとし)を簡単に切ってしまう様な人なら夢の実現など無理だと思う。
閑話休題:世間で離婚が流行しているが、そういう人には、大きな夢は叶えられない?
 いやいや、ウソをついて、天下の政権を盗る事ができる世の中だからね。

人々と係わり合い、共存する事は、自分をだまし、人をだます事で可能だろう。
しかしそういう人間は、独立した人間として生きているとは言えないのでは?
悪魔に魂を売った人間という程でなくとも、何かに支配された人間である。
独立した人間で、かつ人々と係わり合い共存する事を両立させるのは意外と難しい?

今日、またまた愛の母・多恵子(若村麻由美)が、純の仕事場に現れた。
その時、多恵子が「純はいつでも別れて逃げられるが、私はどんなことがあっても
逃げられないの!・・・云々」というセリフ。つづいて、バッグからなにやら床にぶちまけ
「でなかったら、こんなクスリなんか飲まない!」と絶叫。あわやまた事件に?
その日の夜、愛が麻雀で儲けた金の件で純が、愛は問題から逃げていると便所に立籠り
抗議する。純は、「一生うつむいて生きていく愛を見たくない。普通のカップルの様に
堂々と顔を上げて二人で歩きたい!」と本音を吐いていた。
純は「愛の事を病気とは思わない」と言ってはいたが、“普通ではない”と思っている。
この“普通ではない”という状態が、社会の中で了解されてしまうと、精神病?だろう。

今日のところは、多恵子の強烈なパンチに圧倒されたという事だろう。
さすが若村麻由美。年の功か?演技に根性が入っていた。夏菜は芝居も押されていた。
社会と個人といっても、大きな影響力を持つのは家族や、近しい友人・知人である。
とりわけ親(父母)子関係や、夏菜の様な祖父母孫関係が重要な意味を持つ。
しかし個人の社会に対する窓口はそれしかない、という訳でもない。しかし愛の様に
社会に対する見方が、マイナス志向では何処から見ても同じ? 何時どういう機会に
どんな理由で、愛の社会に対する見方がプラス志向に転換されるのか?如何なものか
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「純と愛」北風と太陽と愛の病気 [物語]

今週のNHK朝のTV小説「純と愛」:今週のお題は「北風と太陽」。今週今日までの
物語を視聴していて、愛(風間俊介)の状況を“病気”と見るやり方が「北風」、
愛の状況を“病気”と決め付けないで、暖かく接するやり方が「太陽」と察した。
差し詰め、「北風」派の筆頭は、愛の母・待田多恵子(若村麻由美)、それに続いて
純(夏菜)に好意を持つ水野(城田優)が思い浮かぶ。
「太陽」派の筆頭は純だった?
過去形にしたのは、今日の幕切れで、純が、愛に病院行きを提案したからである。
‘愛に病院行きを提案’が即‘愛の状況を“病気”と見る’という事にはならないが、
純が、微妙に変化している事は否めないだろう。

変化した理由は、今日(第28回)の愛が起した騒動である事は明らかだ。
これと同様の騒動は、第21/22回での指輪紛失事件だったが、この時には純の気持に
ブレはなかった。純が、子どもの観相(指輪を隠していた)を依頼したからである。
騒動を起した直接の原因は、自分にあると思ったわけである。
今回の場合は、愛が、自分で同僚の千香(黒木華)を観相し、千香がクレームの
犯人であると決め付け、襲い掛かったという。何か裏事情があるかも知れないが、
とにかく、普通に見れば異常ではないか?

今迄の展開では、「純と愛」物語は一体、何を言いたいのかよくわからない。
愛の状況は、病気か?病気でないか?見分けにくい境界例・領域の問題かも知れない。
まさか、境界例に悩む人々を勇気付ける物語にしようというのではなかろう?
まあ、こういう精神領域、心理領域の問題は、他人事として無責任に世間話するのは
面白いが、自分の問題として捉えると、随分と重苦しい話になってしまうと思う。
あまり、こういう問題を長引かせても、視聴率は落ちるばかりではないか?

人間は、誰しも独立した人間として生きる事と、人々と係わり合い共存して生きる事
という矛盾する生き方を課せられている。この矛盾する生き方を調和させ両立させて
生きていかなければならないというのが、社会的動物・人間の宿命?この調和感覚
(バランス感覚)は、幼児期からの体験を通じて、自ら養って行くしかない。しかし
一般に多かれ少なかれ、人々は、絶妙な調和感覚を育て上げてはいない。ある意味では
この調和感覚を養い育てる事が「生きることの意味」かも知れない。現代が窮屈な社会
などと言っている様な人は、相当、調和感覚が狂っている? 如何なものか
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ハロウィンor倹約の日? [物語]

急に朝夕の冷え込みがきつくなり、明日は11月という頃やっと秋らしい気分になってきた。
此処の所、妻不在で何かと忙しくしていたが、一人暮らしに慣れてきたせいだろうか?
今日は何か、随分とのんびりと過ごしたような気がする。

ゴルフ練習場に行く時には、いつも早く出て行くので朝がせわしなかった。
早く行く理由は、早朝割引があることだった。但し最近行く様になった練習場(B)は、平日の昼間は、練習場(A)の早朝割引よりも安い。従って人気があり、遅く行くと待たされるので、やはり早く行っていた。ところがさらに、余り混雑しないでしかも、練習場(B)とほぼ同額、部分的には割安の練習場(C)を教わった。練習場(C)は、のんびりと10時前に出かけたが、練習場は空いていて、ゆっくりのんびり練習。練習を終えたのが正午前。

車で20分ほどのイオンに行き、昼食。誕生月はお安く食べられるお店がある。10月は私の誕生月だが、うっかり忘れていた。誕生月・最後の日、思い出して飛び込んだ。店員さんはハロウィンの日と分かるような魔法使いの帽子をかぶっており、ほとんどハロウィンに御縁のないわたしだが、その日だとわかった。そういえば、今日は世界勤倹デーでもあるそうな!安い練習場を渡り歩き、この年で、一人誕生割引の店に行くってか?実に、勤倹デーにふさわしい行いではなかろうか?
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写真は、お店からの誕生日プレゼントのケーキ皿である。この年(7?才)になるまで、こういうサービスを受けた事がなく、年甲斐もなくはしゃいで写真を撮ってしまった。ゴルフ練習したとはいえ、フリードリンクをがぶ飲みし、その上、ケーキまで食べて、健康上は、腹七分目と教わりながら、獲物を飲み込んだ蛇の如く、身動きが取れず、お店が空いていることをいいことに、しばし居させて貰って読書。実に優雅な午後のひと時だった。

午後二時頃、日課の散歩に酒津公園に向け歩き出す。今日は青江神社やその奥のクラレ研究所の近くまで散策。散歩しながら考えた。散歩は運動として考えると無駄が多い。筋トレとして評価すると、時間をかけた割には効果が上がらない(ゴルフの飛距離がどんどん落ちる)。いっそ散歩を止めてジム通いでもするか?とも思うが、散歩のよさは、精神的リラクゼーション効果だから、ジムでは補えない様な気もする。午後4時ごろイオンに戻り、その後はこまごました買物等に時間を潰した。帰宅は17時を回っていた。一人暮らしの気楽さ?のんびりするのもまた善い。如何なものか
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