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林芙美子とは? [物語]

昨日、一昨日と、林芙美子の一片の詩を元に、幸福について書き記したが、
振り返ると、私の思い込みの我田引水かも知れない。 そこで無知な私なりに
林芙美子の超略年譜を作成して彼女の人柄を推測し、詩の解釈の当否を検討した。
〔林芙美子の超略年譜〕
明治36年(1903) 12月31日誕生。出生届は鹿児島市である。
大正5年(1916) 尾道市に定住。この頃の様子「風琴と魚の町」(昭和6年発表)
大正9年(1918) 文才を認めた訓導の勧めで尾道市立高等女学校へ進学
大正11年(1922) 19歳、女学校卒業直後、遊学中の恋人を頼って上京
大正12年(1923) 卒業した恋人は帰郷して婚約解消。9月・関東大震災
 尾道や四国に難を避けた。この頃からの日記が『放浪記』の原型になった。
大正13年(1924) 親を残して東京に戻り、再び3人の生計を立てた。
大正15年(1926)23歳、手塚緑敏と結婚。―――放浪時代の終結
昭和3年(1928) 10月から翌々年10月まで20回、自伝的小説『放浪記』を連載
昭和5年(1930) 昭和恐慌の中『放浪記』と『続放浪記』で芙美子は流行作家になった。
 印税で中国へ一人旅した。講演会などの国内旅行も増えた。
昭和6年(1931) 朝鮮・シベリヤ経由でパリへ一人旅。ロンドンにも滞在。翌年帰国
戦後の執筆活動も活発 代表作・『晩菊』(1949)『浮雲』(1951年)等
昭和26年(1951) 心臓麻痺で急逝

昨日、一昨日に取上げた「詩」が、林芙美子のいつ頃の作なのか?良く分からず、
年譜を編纂すれば見当が付くかと思って作って見た。彼女の50年弱の生涯を振り返ると
誕生時から続いた不運の時代が、人生の半ば(23歳)に終結している事が印象的である。

「放浪記」第二部文末に、昭和5年(1930)に書いた「放浪記以後の認識」という
文章が挿入されている。そこには“頃日禅なるものを始めたが、自分だけの悟りを開く
には前途はるか”とあった。艱難辛苦を乗越えて、女学校を自力で卒業した女傑では
あっても、当時まだまだ私の「詩の解釈の心境」に至っていない事が読み取れる。
しかしそこにはまた「赤毛の娘」という言葉がある。これはひょっとすると、
詩の原稿を贈った村岡花子の翻訳小説「赤毛のアン」からの連想ではないか?
従ってこの頃に創作した「詩」とも考えられる?そうだとしても当時30歳前である。
これらを考え合わすと、当時すでに潜在的に「詩の解釈の心境」だったとしても
おかしくない?その後の作なら、禅の進境によって十分妥当では?如何なものか
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