続・幸福とは? [現代詩]
今日は快晴だったが、暖かく随分と春めいてきた。霞たなびく空は乳白色だった。
さて、今日も昨日の林芙美子の詩(「続きを読む」に詩の全文を掲載)を基にして
“幸福”について、考えて見たいと思う。
最初に、昨日書いた、詩の解釈の根拠を示しておきたいと思う。
1.普通に読めば、詩における「幸福」の意味は、どちらのフレーズも同じ意味で、
後半は、それを、より具体的に表現したとも読めるのではないか?それをわざわざ
詩の前半と後半で違う意味があると考えた根拠は
根拠1) 次の詩句の“波間の鴎のごとく”という所である。
「生きてゐる幸福(しあわせ)は 波間の鴎(かもめ)のごとく 漂渺」
「鴎」は、人生の苦難や、憂愁とは縁遠い鳥だと思う。例えば三好達治が、
終戦直後の昭和21年に出版した詩集「砂の砦」の中の詩「鴎(かもめ)」は、
「・・・ついに自由は彼らのものだ 太陽を東の壁にかけ 海が夜明けの食堂だ
ついに自由は彼らのものだ
ついに自由は彼らのものだ 太陽を西の窓にかけ 海が日暮れの舞踏室だ
ついに自由は彼らのものだ・・・」 といった元気の良い詩だ。
根拠2) 「漂渺」≒縹渺とすると、「神韻縹渺」という四文字熟語を思い出す。
「神韻」は、きわめてすぐれた詩文の趣という意味。
「神韻縹渺」は、表現しがたいきわめてすぐれた奥深い趣という意味。
従って「生きてゐる幸福(しあわせ)」は 波間の鴎(かもめ)のごとくに
表現しがたいすぐれた奥深い趣だと、芙美子は、高らかに謳った?
結局、林芙美子は、「生きている幸福(しあわせ)」を、どの様に感じていたのか?
という事が問題になるが、私の解釈は以下の通りである。
1.彼女は、幸福を、求めるものではなく、生活の中で感じるものだと思っていた。
根拠) 「生きている幸福(しあわせ)」という詩句が、直截に語っている。
2.彼女は、幸福とは日常の平凡なありふれたことによって、紡ぎだされると考えた。
根拠) 「風も吹くなり 雲も光るなり」という繰返し句で詠っている対象が、
「吹く風」、「光る雲」という非常に渋い平凡なものに着目している点である。
彼女は、「人生の盛りは短く、苦労ばかりが多い」という世間の常識を否定しないが、
「風も吹き 雲も光る」自然の活動を、自らの心身に同期させ、活力を得ていた。
従って、彼女は、「生きている幸福(しあわせ)」に溢れていたのではないか?
如何なものか
さて、今日も昨日の林芙美子の詩(「続きを読む」に詩の全文を掲載)を基にして
“幸福”について、考えて見たいと思う。
最初に、昨日書いた、詩の解釈の根拠を示しておきたいと思う。
1.普通に読めば、詩における「幸福」の意味は、どちらのフレーズも同じ意味で、
後半は、それを、より具体的に表現したとも読めるのではないか?それをわざわざ
詩の前半と後半で違う意味があると考えた根拠は
根拠1) 次の詩句の“波間の鴎のごとく”という所である。
「生きてゐる幸福(しあわせ)は 波間の鴎(かもめ)のごとく 漂渺」
「鴎」は、人生の苦難や、憂愁とは縁遠い鳥だと思う。例えば三好達治が、
終戦直後の昭和21年に出版した詩集「砂の砦」の中の詩「鴎(かもめ)」は、
「・・・ついに自由は彼らのものだ 太陽を東の壁にかけ 海が夜明けの食堂だ
ついに自由は彼らのものだ
ついに自由は彼らのものだ 太陽を西の窓にかけ 海が日暮れの舞踏室だ
ついに自由は彼らのものだ・・・」 といった元気の良い詩だ。
根拠2) 「漂渺」≒縹渺とすると、「神韻縹渺」という四文字熟語を思い出す。
「神韻」は、きわめてすぐれた詩文の趣という意味。
「神韻縹渺」は、表現しがたいきわめてすぐれた奥深い趣という意味。
従って「生きてゐる幸福(しあわせ)」は 波間の鴎(かもめ)のごとくに
表現しがたいすぐれた奥深い趣だと、芙美子は、高らかに謳った?
結局、林芙美子は、「生きている幸福(しあわせ)」を、どの様に感じていたのか?
という事が問題になるが、私の解釈は以下の通りである。
1.彼女は、幸福を、求めるものではなく、生活の中で感じるものだと思っていた。
根拠) 「生きている幸福(しあわせ)」という詩句が、直截に語っている。
2.彼女は、幸福とは日常の平凡なありふれたことによって、紡ぎだされると考えた。
根拠) 「風も吹くなり 雲も光るなり」という繰返し句で詠っている対象が、
「吹く風」、「光る雲」という非常に渋い平凡なものに着目している点である。
彼女は、「人生の盛りは短く、苦労ばかりが多い」という世間の常識を否定しないが、
「風も吹き 雲も光る」自然の活動を、自らの心身に同期させ、活力を得ていた。
従って、彼女は、「生きている幸福(しあわせ)」に溢れていたのではないか?
如何なものか