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人生と生き方 [閑話]

今朝の国会討論で、2050年には日本の総人口は、9,150万人となるそうである。
http://blogs.itmedia.co.jp/business20/2011/02/3000-2eb8.htmlを参照)
高齢化率は20%から40%へと上昇。生産年齢人口は、8442万人から4930万人。
(この数値は、資料により多少のバラツキあり。)
この数値を見る限り、年金制度は破綻する?
しかし本当にそうだろうか? 標題の「人生と生き方」に結び付けて検討する。

私は、最近、身近な人や世の中の動きを見ていて、人生の様々な時期に応じて
生き方を柔軟に変えた方が、心身の健康に良いのになあ!と考えていた。
何故なら、どうせ生きるなら、充実した人生を送った方が良いからだ。
超高齢の私の叔母や、その他の知人を思い浮かべても、柔軟な精神で不平や
不満などを口外せず、不幸を乗り越えて、いつも前向きに生きておられる。
延命長寿はしなくとも良いが、生きている間は「心身共に健康」が一番だ。

それに比べて、私よりも若い世代は、苦労知らず、我慢知らずが多いセイか
心のあり方が柔軟ではなく、柔軟な生き方ができない人も増えた。従って
社会現象として、心身の健康を損なう事になってしまうなあ!と思っていた。
人口減少の源の少子化原因もまた、社会現象として、柔軟な精神ではなく
硬直した精神に基づく生き方をしている事を考慮するべきではなかろうか?

さて、最初に掲げた2050年までの人口減少の数値であるが、
高齢化率は20%から40%へと上昇、となっている。しかしこの推計は正しいか?
これから高齢者になる戦後生れの団塊の世代は、従来のお年寄と大きく違う。
団塊世代以降、苦労知らず、我慢知らずで育った人々がドンドン増えてくるのだ。
高齢者になると、硬直した精神は増々硬直し、心身の健康を害してしまう。
従って、高齢化率は余り上昇しないのではないか?
ただ一つ、統計的に高齢化率が予想よりも下がらない理由が考えられる。
それは延命治療という大義の基で、生きながらえる医療システムである。
色々と書きすぎた。言葉が過ぎたかも知れない。要は、時代の流れと共に、
人間の寿命も延びたり縮んだりして、年齢別人口のバランスも取れてくるのが
「自然の理」という事である。「自然の理」に逆らうなら延命治療を問題にすべき?
国民の稼ぎが、延命治療費に盗られるシステムは良くない。如何なものか
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旧小正月散歩・2013年 [散歩]

今日の当地の天候は荒れるという予想だった様だが、晴間もでて温暖な一日だった。
散歩の途中で両親と三人連れの可愛い女の子に出会った。
女の子(可愛ちゃんと呼ぶ)は、何か連れに注文をつけている様子だった。
追い越し際に立ち止まって話の内容を聴いてみると「手をつなぎたくない!」と
いう事らしい。両親が手を出してつなごうとするのを懸命に振り払っていた。

立って歩き始め、一人立ちが出来る様になり、一人で歩くのが面白くなった頃か?
可愛ちゃんは「手をつながない!」、「一人で歩きたい!」と、たどたどしい口調で
主張しながら、しぶとく手を払い、自分の手は引っ込める仕草。もうたまらない。
この年頃の子どもは、何をやっても、何を言っても可愛くて可愛くて!
私が手を振ると、目ざとく気付き「バイバイ」と言いながら手を振ってくれた。

ご両親は、道を急いでいたのだろうか?転ばぬ先の杖!と思ったのだろうか?
恐らく両方だろう。日常生活における子育ては、いつもいつも理想的にやれない。
もうそういう日常を送ることのなくなった暇な老人とは違うのだ。それでも
可愛ちゃんのこんな素晴らしい時間は、すぐに過ぎ去ってしまう。通りすがりの
私が、可愛ちゃんの貴重な一瞬を共に体験できたのは、何よりの幸せであった。
しばらく行くと、今度は立派な家の中から、思春期と思える子どもの泣き喚く声が
(内容は、シカとは分からなかったが)路上の私まではっきりと聞こえてきた。
何かを必死に抗議しているように聞こえたが、可愛ちゃんとは異なって、随分と
聞き苦しかった。思春期の子(思春子)は何が可愛ちゃんと異なるのだろうか?

私は次ぎの様に考えた。
1.可愛ちゃんは、自立する人間として育つために主張している。
  可愛ちゃんは何をやっても可愛く、また周囲への気配りも自然に出来ている。
2.思春子もまた、自立する人間として育つために主張している?
3.ならば、思春子の主張がなぜ聞き苦しいのか?
4.思春子が、主張の方法論を年齢相応に進歩させる能力に問題があるのか?
  思春子の環境が、年齢相応に方法論を進歩させる能力に問題があるのか?
5.どちらにせよ、環境のセイにせず、自立する人間を目指す志が大切だと思う。
年齢を重ねて、生まれ持った初心(自立の志)を忘れていれば思い出すことだ。
自立する人間を目指す志によって思春子もキッと立派な人間になる。如何なものか
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節分散歩・2013年 [散歩]

今日は、旧暦で言えば正月。年の初め。立春である。
昨日は、「節分2013年」と題して、壬生寺の節分について書いた。
今日は、その昨日の続きである。その後は、廬山寺に向かった。

廬山寺の節分会の代表行事・追難式鬼法楽は、通称「鬼おどり」と呼ばれる。
赤、青(緑がかっている?)、黒の三鬼が、赤鬼はたいまつと宝剣、青鬼が大斧、
黒鬼が大槌を持って現れ、護摩供養を邪魔して、踊り狂う。

午後三時からの節分会に遅れること約20分。たくさんの人々が詰めかけ一杯だった。
この行事も宗教的行事であるからか、堂内から読経の声が聞こえるばかり。
宗教行事のお陰で私の様な「鬼おどり」が狙いの人間は、お目当ての「鬼おどり」に
間に合ってやれやれ!人波にもまれながら撮った写真を掲載しておく。
最初の二枚は、人波の頭越しに、カメラを高く掲げめくらめっぽう撮った写真。
DSC09507.JPGDSC09508.JPG









続く三枚は、護摩供養の秘法等で退散するときのもの。
運よく、鬼さんたちが人波にもまれながら、私のすぐ傍を通り過ぎた。
幼稚園から小学生低学年の子供たちは、鬼さんたちが近づくと泣き叫んでいた。
DSC09515.JPGDSC09516.JPGDSC09517.JPG






昔の人々が恐れていた魔界の鬼は、現代の人々の潜在意識の中にも住んでいる?
如何なものか
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節分2013年 [閑話]

私は今まで節分の豆まきは知っていたが、宗教的行事と意識したことはなかった。
今日は、縁あって京都の節分行事に参加し、節分もまた宗教的行事なのだと思った。
まずは、毎年十数万人もの参詣人で賑わうという壬生寺にお参りした。
厄除け護摩供養が行われるという。また厄除け炮烙の奉納も行われる。
“炮烙”とは、カワラケの事。
皿様のカワラケに厄年の人の名前を書いて奉納し、厄払いをする。
今年は、Shinが厄年なので、彼の厄払いをした。

壬生寺節分会の最大の行事は、やはり壬生狂言ではないだろうか?
毎年、2月2日3日には、壬生狂言三十演目の内から「節分」が一日8回も上演される。
私たちは、3日の13時初回分を、1時間以上待って拝観した。
登場人物は、後家(女主人)、厄払い(ひょっとこ面)、赤鬼。
お囃子は、鉦、笛、鼓、そして介添え

話は、節分の日、後家は豆を用意し、魔よけの柊、鰯の頭を門口に祭る。
厄払いは、面白い表情で厄払いを務める。次に赤鬼が登場するが、後家は異相に驚き逃亡。
鬼は一計を案じて、魔法の打出の小槌で自分の紋付その他の変装道具を取り出して変装。
後家を呼び出して、きらびやかな着物や帯をたくさん打ち出し、後家を誘惑。

酒と大盃も打ち出して酒宴を張る。後家は、注がれた杯の酒を飲まずにそっと捨てる。
鬼は泥酔して眠り込む。後家はその隙に鬼の衣服まで身ぐるみはぎ取り正体を知る。
最後は、豆によって鬼を退散させるが、鬼が居なくなると共に着物も小槌も消えうせた!
狂言は、不幸を招く「欲を伴う誘惑」に負けずに、マメにコツコツと働くことの大切さを
説いているものだという。実に宗教的な御教えではなかろうか? 如何なものか
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