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東京家族物語(4) [物語]

今日の散歩は、比較的日差しもあり、風が強かったが、それ程の寒さは感じられなかった。
今日は、『東京物語』と「東京家族」の周吉(橋爪功)の妻を中心に映画の感想を述べて見たい。
まず『東京物語』のとみ(東山千栄子)を最初に取上げたい。私から見れば、祖母に当るとみは、
『東京物語』を見た当時は、遠い存在の様に感じていた。だが、妻と同世代の「東京家族」のとみこ
(吉行和子)と並べて見た事によって、とみもまた、陰影を持った人物として浮かび上がってきた。

確か、映画制作当時〔昭和28年(1953)〕とみは68歳の役だった。という事は、明治18年
(1885)の生まれという事になる。68歳当時は尾道に住んでいた。常識的に言えば、生誕地も
その周辺と考えて良いだろう。明治18年といえば、明治憲法の発布が三年後、帝国議会最初の
召集が五年後、大津事件は6年後である。明治維新後、まだ世の中は騒然としていた? 

最近の若い人は余り知らないと思うが、当時はまだ北前船の活躍も華やかな頃で、瀬戸内海の
港は海上運輸の基地として賑わっていた。即ち現代の様に鉄道や航空のネットワークが出来る
までは、都会集中型ではなく地域分散、地方中心の経済だった。従ってとみが生まれ育った頃は
尾道も、それなりに先進的な地域だったと思われる。またこの映画制作当時は、ようやく
朝鮮戦争の休戦が成立した年。日本の国際連合加盟は三年後だった。
そういうとみの生涯を眺めると、地域の栄枯盛衰や、日清・日露戦争、そして15年戦争等、
幾多の山谷を乗り越えた多難な人生だったといえる。久し振りの上京を喜び、その慶びを
胸に永久の眠りについたとみの鷹揚で上品な人柄が、懐かしく思い出される。

一方、「東京家族」のとみこは、2012年に68歳という事は、昭和19年(1944)生まれ。
生まれ育った環境は異なるとはいえ、私の妻と同世代である。そういう観点から考えた場合、
「東京家族」のとみこは、頑固な夫に従順に従い、保守的過ぎる様に思えた。子どもや孫が
東京に住み、特に次男・昌次(妻夫木聡)は気がかりな存在である。それなのに、自分一人で
上京して子や孫の様子を見る事は無かったのだろうか?私の妻など、年に何回も、1~2週間位
上京する。とみこの住まいは、瀬戸内の小島という設定だから交通の便が、我家の倉敷よりは
悪いかも知れないが、今回が何年ぶりの上京だったのだろうか?

私は、とみこ(吉行和子)の演技を見ていて、一昨年見た「Railways2」を思い出した
(2011-12-16のブログ『続・映画「Railways2」』を参照の事)。映画「Railways2」は、
滝島徹(三浦友和)・佐和子(余貴美子)夫婦の定年離婚の物語だ。そこで吉行和子は、
看護婦佐和子の患者・信子役(恐らくとみこより年老いた現代のお婆さん)を演じた。
定年離婚を決意した佐和子の頑なな心を解きほぐす大切な味わい深い役だった。


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続々・東京家族物語 [物語]

映画「東京家族」について、今日は私と同世代の平山周吉(橋爪功)を中心に感想を書きとめて
置こうと思う。昨日一昨日のブログでも触れた様に「東京家族」が、『東京物語』をモチーフにして
複合的重層的効果を狙ったものである事を十分承知している。従って多少の齟齬がある事に
目くじらを立てる意図はない。感じた事を記述して、後からその解釈をしたい。

まず、周吉・とみこ(吉行和子)夫妻の旅行計画である。なぜ宿泊先の子ども達と周到な打合せを
しなかったか?2012年という現代の設定だから、如何に瀬戸内の小島に住んでいるとはいえ
通信手段は、『東京物語』(1953年)とは比較にならない程に進歩しているはずである。
長女金井滋子(中嶋朋子)・庫造(林家正蔵)夫婦は、寄合い等で両親の宿泊予定と重なって
いたが、祭りなどは年中あるものではない。もう少し調製可能ではなかったか?
周吉の上京の用向きは、世話になった友人のお悔やみであり、固定された予定ではなかった。

旅行計画を詰めなかった理由は、子ども達が両親の東京滞在期間や行動を細かく設定するのは両親に失礼だと考えていたからではないか?我々の様に都会に勤務し、老後も田舎とはいえ
比較的大きな町に住んでいるものと、感覚が違うのではないか?我々夫婦が上京するとき等、
子ども達からどういう予定かを聴かれ、予定が短すぎると苦情を言われたりする。
瀬戸内の小島で育った人々には、そういう奥床しさが、今も息づいているのだろうか?

そういう感覚で「東京家族」の周吉と次男昌次(妻夫木聡)の関係をみると、互いのコミュニケーションが
かみ合わず、チグハグになっている理由が分かるような気がする。周吉の昌次に対する言葉は
きつそうなのだが、本当は思いやっていることが昌次にも分かるのではないか?昌次に対する
周吉の不満は、昌次の生き方、人生観を理解できない事である。日本の様にいつも急激に変化
している社会で生きている親子は、常に、どの世代にも言える事かも知れない。昌次に対する
周吉の不満は、昌次の婚約者・間宮紀子(蒼井優)の人柄によって解消される。息子の嫁として
紀子の様な女性がなってくれるなら、理解できなかった息子にも安心できる様になるのだ。

「東京家族」の周吉のラストシーンは、『東京物語』のそれと同様に詫びしいものだった。それでも
『東京物語』には、次女・京子(香川京子)が、まだ一緒に住んでいた。しかし「東京家族」の周吉に
同居家族は居ない。周吉はゆきちゃん(荒川ちか)家族ら隣人や地域共同体と共に生きる決心を
していたが、私には、おぼつかない様に思えた。しかし最後にゆきちゃんが洗濯物を入れる籠を
持ってきて洗濯物を出す様に言うセリフを聴いて、「あ~、大丈夫なんだ!」と思った。
素晴らしい隣人と共同体がある。いやこう在って欲しいという願望では? 如何なものか
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続・東京家族物語 [物語]

今日は、朝方少し冷え込んだが、昼間は暖かで晴れ間も多く、気持のよい散歩ができた。
東京家族物語について、本歌取(昨日のブログ参照)の観点から感想を書いてみよう。
私は、50歳代~60歳代?にテレビ放送で『東京物語』を見た頃と違い、「東京家族」における
平山周吉(橋爪功)・とみこ(吉行和子)夫妻の事を大変に身近に感じた。
それは、現在(2012)という時代背景と共に、周吉(72)・とみこ(68)の年齢が、自分たち
夫婦の現在とほとんど重なり合っているからである。人間的側面から見た場合も、周吉の頑固さ、
扱いにくさと共に、とみこの優しさ、おおらかさというのが我が家と似通っている。
だからこそ、とみこの突然の死は実に切なく身につまされ、多くの事を考えさせられた。

『東京物語』の場合には、周吉(笠智衆)・とみ(東山千栄子)は、私と生きてきた時代が違う。
『東京物語』における周吉にとって私は、「東京家族」で言えば、長男幸一(西村雅彦)・文子
(夏川結衣)の子ども(実:柴田龍一郎、勇:丸山歩夢、即ち周吉達の孫)に当る。
『東京物語』では、私は周吉の孫、「東京家族」では、私は周吉自身で、実や勇は私の孫達に
ぴったり符合する。『東京物語』という映画をモチーフとした「東京家族」は、実に五世代に
渡る時代の変化を背景にした奥行きを持っているということになる。

『東京物語』の周吉が成人した1900年初頭から、現代まで約110年の年月を経ている割には、
映画として鑑賞した『東京物語』と「東京家族」の間に、大きな隔たりを感じなかった。
この感想は、私個人のものではなく、出演された俳優さんの多くも同様の感想を漏らしていた。
なぜなのだろうか?大きな原因の1つは、第二次世界大戦という未曾有の出来事で、世の中が
ガラリと変わった後だからではないか?そう考えるとき、『東京物語』における周吉・とみの
不満と喜び、幸一(山村聰)ら子どもたちの行き届かぬ心や悩み、そして次男の戦争未亡人紀子
(原節子)の優しさ、素晴らしさ、悲しさが、なおのこと鮮明になってくる。

「東京家族」はそういう風に見ると『東京物語』の引き立て役にという事になる。しかしだから
子ども達の幸一(西村雅彦)・文子(夏川結衣)、長女の夫・金井庫造(林家正蔵)などが
『東京物語』に比べて優しい事にホッとできるのである。庫造が、駅前温泉に誘う場面など
泣かせるではないか?次男昌次(妻夫木聡)は、現代的で『東京物語』的常識から外れているが、
新旧世代をつなぐ婚約者・間宮紀子(蒼井優)の出現によって家族から認められた。
「東京家族」もまた、『東京物語』によって、引き立てられているのではないか? そして
紀子は、『東京物語』「東京家族」の二つの物語のキーマンであると共に、時代を超えた日本の
変わらぬ素晴らしさの象徴として描かれているのではなかろうか?如何なものか
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東京家族物語 [物語]

先日、知人のお薦めがあったので、山田洋次監督の「東京家族」という映画をみた。
この映画は、昭和28年(1953)に制作した小津安二郎監督の映画「東京物語」をモチーフに
している。山田監督は、「『東京物語』は、世界中の人が共感を持った作品だから、
この普遍的なストーリーで日本の現代を語れるのではないか」と考えたという。

物語は、平山周吉(橋爪功)・とみこ(吉行和子)の老夫婦が、田舎(瀬戸内の小島)から上京
してくる所から始まる。長男幸一(西村雅彦)・妻文子(夏川結衣)、長女金井滋子(中嶋朋子)
夫(林家正蔵)、次男昌次(妻夫木聡)ら子ども達家族との久し振りの再会の為である。
『東京物語』と「東京家族」の登場人物は、ほぼ同じで、役名もほぼ同じである。ただ大きく
違う点が数点ある。次男昌次は、『東京物語』では戦死した良い息子だったが、「東京家族」では
出来の悪い息子で両親に心配を懸けている存在。また次女平山京子(香川京子)、
三男平山敬三(大坂志郎)は、「東京家族」では、割愛されている。
『東京物語』では中心的な存在だった紀子(原節子)は、戦争未亡人だったが、
「東京家族」では、昌次と言い交わした婚約者・間宮紀子(蒼井優)として登場する。

この大きな違いは、昭和20年代末(1950年代前半)と、2012年との時代の違いであろう。
戦争の傷跡が如何に大きかったかを、いまあらためて思い出させてくれた。感謝である。
『東京物語』で両親は、優しく思いやり深い紀子の案内による東京見物に深く感謝したが、
「東京家族」では、夜勤帰りの昌次のイヤイヤ案内で、両親は気まずそうだった。
『東京物語』での紀子は、東京見物、母平山とみ(東山千栄子)の自宅での宿泊、とみの
お葬式など、多くの活躍シーンがあった。
一方「東京家族」での間宮紀子は、とみこ(吉行和子)が昌次の部屋に泊まる夜と次の朝、
そしてとみこのお葬式と出番が少なかったが、後半にキッチリと美味しい所を持って行った。
蒼井優も随分と役得をしたものである。

紙面の都合もあるので、まとめに入りたい。日本古来の和歌の世界に、本歌取(ほんかどり)と
いうのがある。本歌取とは、複合的重層的効果を発揮する為に古歌(昔の歌=本歌)を用いた
作歌技法である。本歌を背景にすることで表現に奥行きや深みを与えるのである。
「東京家族」は、本歌取という日本の伝統技法を用い、『東京物語』を本歌として配する事に
よって、深みのある表現をしたかったのだと思う。それは成功したか?続編を書きたい!
如何なものか

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ゴルフ絶不調? [閑話]

今日は、久し振りにゴルフ練習に行ってきた。先月は20日迄に4回行ったが。
寒さが厳しくなると、それでなくとも夜型の私は寝起きが悪く、練習が遠のく。
そろそろシーズンも近づいてきたので、重い腰を上げて行ったという訳である。
練習はサボっていたが、庭先での素振りは例年に無く熱心にやっていたので
今日は、打ち易い(打ち下し気味)練習場に行き、気持ちよく飛ばそうと思った。

所が、生憎の雨で長いクラブは、飛んだ距離がよく見えない。
そこで長いクラブからショートアイアンへ、練習の狙いを切替えた。短いクラブの
練習を始めたら、意外な事が起った。何時もは悩んだ事も無かったショートアイアンが
全然ダメ。当たりが悪く、フルショットもコントロールショットも、距離が普段と違う。
どのクラブも、10~20ヤード位、距離が合わない。飛ばないのだ。これは大変!
このまま、コースに出たらとんでもない醜態を曝すのではないか?焦った。
そんな事から米男子ゴルフツアーに本格参戦し、絶不調の石川遼の事を思い出した。
先週末に4戦目にして初めて予選通過を報じられていたが、結果はどうだったか?

ネットで得た先週のツアー情報は以下の通りだった。
◎ カリフォルニア州・リビエラCCで開催の米国男子ツアー「ノーザントラストオープン」
◎ 4日間の本大会における石川遼のホールバイホール
  1日目 OUT〇 - - - - - △ - - E(35)
      IN - △ 口 - 〇 - 〇 〇 - E(36) E (71)  48位タイ
  2日目 OUT- △ - - - 〇 - - - E(35)
      IN - - △ 〇 - △ - - △ +2(38) +2 (73) 70位タイ
  3日目 OUT〇 口 〇 - △ 〇 - - - E(35)
      IN △ 〇 - - △ - - - 〇 E(36) E (71)  58位タイ
  4日目 OUT〇 △ △ △ - - - - - +2(37)
      IN - - - △ 〇 口 - 〇 - +1(37) E (74)  61位タイ
      ◎:イーグル 〇:バーディ -:パー △:ボギー 口:ダブルボギー

以上の成績を見ると、石川遼クラスでは、散々な成績という事だろう。
予選では、ドライバーやパットが不調といわれ、本戦ではアイアンが不調との事。
日本プロゴルフ界のトップクラスの選手でも、なかなか思うようには行かないのだ。
私の如きヘボ爺ゴルファが、乱れに乱れるのは当前だのクラッカーァ?如何なものか
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「清貧の書」と幸福 [物語]

今日、林芙美子の昭和6年(1931)の作「清貧の書」を読了した。
この著作は、確固とした作家であることを証明したという位置付けの短編である。
物語の主人公(加奈代)は二度の結婚に失敗(内縁で戸籍は汚していないらしい)。
カフェの女給をしている加奈代は、男運が悪い。DVの紐男に騙されるらしい。
それでも懲りずに三人目の男と同棲し、高い家賃の一軒家(ぼろ屋)に引越し。
第三の男(小松与一)は貧乏画家。だが暴力を振るわれた加奈代を思いやる優しさの
ある男だった。金もないのに貯金をはたいての引越しは理解できないが、与一は
自分の才能に絶望して加奈代を頼っていたようである。清貧洗うがごとき生活。
与一は金がなくなった事を知り、ペンキ屋の仕事で稼ぐ様になるが、ある日突然
刑事達から小松世市という思想犯に間違われて、危うく職を失いそうになる。

その時に「召集令状」が、身の潔白を証明してくれた。小説の中では召集期間が
21日間という短期であり、平時にはそういう召集もあったのか?よくわからない。
兎も角、誤認逮捕を免れ、ペンキ屋の仕事での稼ぎで与一の召集期間中も加奈代は
餓死せず暮らす事ができた。召集期間中の与一の稼ぎも貧乏人には豊かさをもたらす。
召集期間中、二人の手紙のやり取りを通して、二人の愛は、確実に育まれた。

この短編の記述内容からして、加奈代のモデルは林芙美子、与一は芙美子の終生の夫
・手塚緑敏である事は間違いない。勿論、実話ではないだろう。創作的記述内容も
ふんだんに盛り込まれていると思う。しかしこの短編は、芙美子の心の変化を表す。

林芙美子は、あらゆる苦労をしながら望みどおり「放浪記」でデビュしたが、
近親者等との葛藤に悩んでいた。「放浪記」第二部文末、昭和5年(1930)の
「放浪記以後の認識」では、自分が中途半端な状況にある事を認識していた。
独力で女学校を卒業し努力して、なまじ、成功したことを悔やんでいる様だった。
「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」は、その当時の思いではないか?
そういった迷いが、晴れた事を「清貧の書」は語っている。
「風が吹き、雲がひかり、波間に鴎が縹渺として漂う。」
そのありふれた、あるがままの姿こそが、幸福(しあわせ)だと気付いたのでは?
家族との葛藤も、成功者として辛い過去を暴く人々も、あらゆる事をあるがままに
受け止めて、波間の鴎の様に、浮き沈みに拘らず、神韻縹渺の文章を書いたのだ。
幸福に関する芙美子の詩は、この短編を書いた以降ではないか?如何なものか
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林芙美子とは? [物語]

昨日、一昨日と、林芙美子の一片の詩を元に、幸福について書き記したが、
振り返ると、私の思い込みの我田引水かも知れない。 そこで無知な私なりに
林芙美子の超略年譜を作成して彼女の人柄を推測し、詩の解釈の当否を検討した。
〔林芙美子の超略年譜〕
明治36年(1903) 12月31日誕生。出生届は鹿児島市である。
大正5年(1916) 尾道市に定住。この頃の様子「風琴と魚の町」(昭和6年発表)
大正9年(1918) 文才を認めた訓導の勧めで尾道市立高等女学校へ進学
大正11年(1922) 19歳、女学校卒業直後、遊学中の恋人を頼って上京
大正12年(1923) 卒業した恋人は帰郷して婚約解消。9月・関東大震災
 尾道や四国に難を避けた。この頃からの日記が『放浪記』の原型になった。
大正13年(1924) 親を残して東京に戻り、再び3人の生計を立てた。
大正15年(1926)23歳、手塚緑敏と結婚。―――放浪時代の終結
昭和3年(1928) 10月から翌々年10月まで20回、自伝的小説『放浪記』を連載
昭和5年(1930) 昭和恐慌の中『放浪記』と『続放浪記』で芙美子は流行作家になった。
 印税で中国へ一人旅した。講演会などの国内旅行も増えた。
昭和6年(1931) 朝鮮・シベリヤ経由でパリへ一人旅。ロンドンにも滞在。翌年帰国
戦後の執筆活動も活発 代表作・『晩菊』(1949)『浮雲』(1951年)等
昭和26年(1951) 心臓麻痺で急逝

昨日、一昨日に取上げた「詩」が、林芙美子のいつ頃の作なのか?良く分からず、
年譜を編纂すれば見当が付くかと思って作って見た。彼女の50年弱の生涯を振り返ると
誕生時から続いた不運の時代が、人生の半ば(23歳)に終結している事が印象的である。

「放浪記」第二部文末に、昭和5年(1930)に書いた「放浪記以後の認識」という
文章が挿入されている。そこには“頃日禅なるものを始めたが、自分だけの悟りを開く
には前途はるか”とあった。艱難辛苦を乗越えて、女学校を自力で卒業した女傑では
あっても、当時まだまだ私の「詩の解釈の心境」に至っていない事が読み取れる。
しかしそこにはまた「赤毛の娘」という言葉がある。これはひょっとすると、
詩の原稿を贈った村岡花子の翻訳小説「赤毛のアン」からの連想ではないか?
従ってこの頃に創作した「詩」とも考えられる?そうだとしても当時30歳前である。
これらを考え合わすと、当時すでに潜在的に「詩の解釈の心境」だったとしても
おかしくない?その後の作なら、禅の進境によって十分妥当では?如何なものか
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続・幸福とは? [現代詩]

今日は快晴だったが、暖かく随分と春めいてきた。霞たなびく空は乳白色だった。
さて、今日も昨日の林芙美子の詩(「続きを読む」に詩の全文を掲載)を基にして
“幸福”について、考えて見たいと思う。
最初に、昨日書いた、詩の解釈の根拠を示しておきたいと思う。
1.普通に読めば、詩における「幸福」の意味は、どちらのフレーズも同じ意味で、
 後半は、それを、より具体的に表現したとも読めるのではないか?それをわざわざ
 詩の前半と後半で違う意味があると考えた根拠は
 根拠1) 次の詩句の“波間の鴎のごとく”という所である。
  「生きてゐる幸福(しあわせ)は 波間の鴎(かもめ)のごとく 漂渺」
  「鴎」は、人生の苦難や、憂愁とは縁遠い鳥だと思う。例えば三好達治が、
  終戦直後の昭和21年に出版した詩集「砂の砦」の中の詩「鴎(かもめ)」は、
  「・・・ついに自由は彼らのものだ 太陽を東の壁にかけ 海が夜明けの食堂だ
   ついに自由は彼らのものだ
   ついに自由は彼らのものだ 太陽を西の窓にかけ 海が日暮れの舞踏室だ
   ついに自由は彼らのものだ・・・」 といった元気の良い詩だ。

 根拠2) 「漂渺」≒縹渺とすると、「神韻縹渺」という四文字熟語を思い出す。
  「神韻」は、きわめてすぐれた詩文の趣という意味。
  「神韻縹渺」は、表現しがたいきわめてすぐれた奥深い趣という意味。
  従って「生きてゐる幸福(しあわせ)」は 波間の鴎(かもめ)のごとくに
  表現しがたいすぐれた奥深い趣だと、芙美子は、高らかに謳った?

結局、林芙美子は、「生きている幸福(しあわせ)」を、どの様に感じていたのか?
という事が問題になるが、私の解釈は以下の通りである。
1.彼女は、幸福を、求めるものではなく、生活の中で感じるものだと思っていた。
 根拠) 「生きている幸福(しあわせ)」という詩句が、直截に語っている。
2.彼女は、幸福とは日常の平凡なありふれたことによって、紡ぎだされると考えた。
 根拠) 「風も吹くなり 雲も光るなり」という繰返し句で詠っている対象が、
  「吹く風」、「光る雲」という非常に渋い平凡なものに着目している点である。

彼女は、「人生の盛りは短く、苦労ばかりが多い」という世間の常識を否定しないが、
「風も吹き 雲も光る」自然の活動を、自らの心身に同期させ、活力を得ていた。
従って、彼女は、「生きている幸福(しあわせ)」に溢れていたのではないか?
如何なものか

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幸福とは? [現代詩]

この処の散歩は、変わりやすい冬の天候の割には雨にも会わず、好調である。
寒い日冷たい風の日も続くが、ホンのわずかずつ「名のみでない春」が近づいている?
厳しい北風さんと戯れる冬の散歩に夢中のあまり、寒椿の見頃も過ぎてしまった。
「花の命は短くて 苦しき事のみ多かりき」という言葉が、ふと頭をよぎった。

以下の詩は、このフレーズの原典(林芙美子の自筆の詩:次のURLによる)である。
http://duolavie.blog117.fc2.com/?mode=m&no=175
「風も吹くなり 雲も光るなり
 生きてゐる幸福(しあわせ)は 波間の鴎(かもめ)のごとく 漂渺

 生きてゐる幸福(こうふく)は あなたも知ってゐる 私もよく知ってゐる
 花の命は短くて 苦しき事のみ多かれど  風も吹くなり 雲も光るなり」

以下はこの詩についての私なりの解釈である。その為に全文を記載させてもらった。
1.「幸福」を、第一フレーズでは“しあわせ”、第二フレーズでは“こうふく”と
 ふり仮名を違えた理由は何か? “生きている幸福”を、
 縹渺(ひょうびょう:広くて果てしない様、かすかではっきりしない様)とした
 波間の鴎に譬えた芙美子自身の境地と、皆と了解できる幸福とを無意識に区別した?
2.皆と了解できる幸福とはなにか?
 それは、“花の命は短くて 苦しき事のみ多かれど 風も吹くなり 雲も光るなり”
 即ち、人生の苦難に立向う中で、幸福も味わうことができる、という事である。
3.一方、林芙美子の到達した幸福の境地とは何か?
 それは“風も吹くなり 雲も光るなり”という冒頭の二句で謳いあげている。
 積極的な心の持ち方こそが、生きている幸福である、という事ではなかろうか?
 
波間の鴎は、広大な海中で寄る辺なく漂って果敢なげにみえる。しかしそれを
林芙美子は、広大無辺の仏様に救いとられた姿として活写した。通常“ひょうびょう”
という字は「縹渺」と書くが、芙美子は「漂渺」と書いた。「漂渺」は誤字ではなく、
恐らく彼女の独創的な表現だと考える。「漂渺」とは寄る辺無い鴎の安心立命の姿だ。
それはとりもなおさず、林芙美子の生き様である。殺伐たる社会に身を任せ、悠然と
生きる心を表現した独創的な二字熟語のではなかろうか? 彼女は経済的に苦労した。
そのためか働きすぎて早世したが、生きる幸せを十二分に知っていた。如何なものか
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柔軟な精神とは? [閑話]

立春も過ぎて散歩も日に日に楽になるだろうと期待している。今日は晴の間に
散歩に出たからか、良い日和だと思っていた。しかし曇り空になると風も冷たく
急に冷え込み、寒いからスロージョギングしたら、日が照って汗を少し掻いた。
日差の有無で、体感温度が随分違う様に思うのは、年のセイだろうか?

昨日のブログで、昔の年寄は柔軟な精神を持ち、今の人は硬直した精神だと書いたが
それは言葉の綾であり、全くその反対だと言い包める事もできるだろう。要は、
昔の年寄と今の人とは、心も持ち方、精神のあり様が違うと言いたいだけである。

今、80歳以上のお年寄は、古い道徳に縛られて、結婚して、子どもを生み育てた。
その多くの人々は、貧乏だった社会の為に懸命に働いて、豊かな社会に貢献した。
こういう見方をすれば、80歳以上の昔の年寄は、硬直した生き方だった?
一方、今の人々は、新しい生き方で、結婚も子育ても面倒だと思えば自由に「ノー」
従って、そういう意味では、今の人々は、柔軟な生き方だといえる。

しかし今の人々の自由は、物質的豊かさを前提にしたものでは?
仮に今の人々の老後が物質的に豊かでなくなり、その上、高齢者になり、
身体的にも様々な自由が利かなくなった時に、柔軟な精神で生きる気力が湧くか?
少子化で心の糧になる子どもも孫も居なくても、他所の子や孫の世話をする苦労や
可愛がる喜びを通して、生きる事の意味を学ぶ柔軟な精神を養う事ができるか?
勿論、そういう人々も多く居ることと思う。だが
現代の世相を見ていると、生きることの本質(即ち道徳の本質)を見失っており
今の人々で世相に流されている人達は、現在の長寿者の様には行かないと思う。

現代の世相とは、例えば「純と愛」に描かれている二人の主人公とその家族だ。
彼らは、いわば中流階層であり、財産を相続する様な、有産階級である。
有産階級でも、親が寄付して子どもに相続しないのなら別であるが。
「純と愛」の二家庭の登場人物は、個人主義者として描かれているが、有産階級は
基本的に個人主義ではありえない(成立たない)。こういう基本が全然わからずに
ドラマを作っているから全く現実味がないのだ。こういうドラマを見て面白いと
感じる人々は、相当に本質から外れている?或いはこういうドラマを制作している
NHKやその関係者、許容している世間も相当に狂っている? 如何なものか
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