SSブログ

豊かさと「分」 [思い出]

今日は、午前中にゴルフ練習(打ちっ放し)に行った。打球数=60球(200円也)
一球に付き、3回~4回の素振りをするから、少なくとも250回はクラブを振った。
柔軟体操と、スクワット300回を交えてやったから、まあまあ運動にはなったと思う。
練習結果は、可もなく不可もなし(現状維持?)、と言ったところだろうか?
午後から天気が崩れ、傘差し散歩となったが、片道は足高山(標高67m)の山越え。

今日、散歩の帰路に立寄った古本屋で読んだ本の中に“自分の「分」をわきまえる”
という、言葉に出会った。なぜ、この言葉に注意を寄せたのか? その理由には
その著者が「豊かさ」とか「しあわせ」を獲得する条件として記述されていたという
こともあったが、私の古い記憶を呼び覚ます言葉でもあったからである。
古い記憶とは、私が30才代後半、亡父の晩年の言葉に重なっていたからである。
“自分の「分」をわきまえる”とは、いわば亡父の遺言のようなものだった。
亡父の言葉を聴いた当時の私は、まだまだ未熟者だった故の忠告だった?

「分」を辞書で引くと、“生まれつき、責任・義務、けじめ、能力、完全な全部”
という意味であることがわかる。「才分、身分、気分、性分、天分、職分、本分」等
の熟語によっても、「分」という言葉の意味が自ずと浮かび上がってくる。
“「分」をわきまえる”とは、「己を知る」ことと同じ様な意味合いである。しかし
「分」という文字が、大勢のあるいは無限に近い人間を分けた中のひとりとしての
“自分”という意味が強く意識されている点に「己を知る」と大きな違いがある。
「己を知る」というと、自己の内面を探索して、自分を知ることと思いがちだが
そういうアプローチは、唯我独尊的な視点になりがちになる。それに対して
“「分」をわきまえる”は、自分を無数にいる大勢の人間の一人という視点を忘れない
謙虚さで、「己を知ろう」と努力する姿勢に大きな特徴があると思う。

豊かさも、幸せにも、お金も、無数の人間の一人としての「自分」即ち、自己の
「才分、性分、天分、職分、本分」とは何かを弁えると自然とついて回ってくる?
私は、残念ながら豊かさも幸せもお金もほどほど(お金は少ない?)だが。それは、
職分や本分を十分弁えず、天分や才分を伸ばしきれず、性分の欠点も多く、しかも
それを十分に修正できなかったからである。いわば自業自得というものだ。
それでも、無数の人間の一人として“「分」をわきまえる”ことができたからこそ
お金も無く人間関係も貧困?でも、心は豊かでしあわせ!感謝!感謝! 如何なものか
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。