宗教の問題?道徳の問題? [希望]
私は、2012-12-27のブログ「ゆとり教育再考」において、
道徳や宗教の教育問題を考え直すべきだと書いた。
しかしそれは、教師が生徒に上から目線で指導するという様な教育ではない。
昨日のブログ「神はいるか?いないか?」にも書いた様に、
「神」の存在は他人事ではない。
即ち宗教や道徳の問題は、上から押付けられるものではなく、自らの人生を
有意義に、或いは充実したものにする為に、大切な問題なのだと思う。
私が最近読んでいる本に、次ぎの様な事が書いてあった。
1.世の中の行いが乱れるから、仁愛や正義が強調される様になった。
2.人が、欲望に走り、狡猾になったから、だまし合い、疑い深くなった。
3.家族が不和になったから、孝行や親の慈愛が強調された。
4.国家の運営が乱れるから、忠義が強調される様になった。
この内容を読むと、「道・徳・仁・義・信」という概念が生まれ出たのは、
世間や国家の運営の為に、政治的に考え出されたものだという事がわかる。
従って、今迄の道徳や宗教の教育は、地域や国家の運営の為に行われてきた。
民主主義、自由主義の社会というのは、そういう古い体質の社会からの脱皮?
古い社会・古い体制に反抗したのは、そういう上から目線の押付けられた生き方や
道徳ではなく、新しい社会の新しい人間の生き方を創造する為ではなかったのか?
然るに現代は、古い社会・古い体制以上に、人間は「獣」に成り下がっている?
それは、新しい社会をつくるという名目で古い秩序を破壊するだけで、新しい社会も
また、古い社会以上の出世主義、拝金主義の上塗りをしているだけだからでは?
もう一度言う。
民主主義、自由主義の社会というのは、そういう古い体質の社会からの脱皮では?
古い考えに束縛されない民衆が主体というのは、古い社会の道徳からの脱皮では
あっても、健全な社会の為に、新しい秩序を維持する必要がある。一人一人が、
宗教や道徳の問題を、自分の事として取組む心構えが大切である。決して「獣」に
成り下がって良いという事ではないと思う。皆でつくる新しい社会の秩序の為の
新しい道徳や宗教に関する教育とは、そういう自主的な個人の活動を促進する事。
また皆が考え議論して有意義な考えを生み出す為の場づくりでは?如何なものか
道徳や宗教の教育問題を考え直すべきだと書いた。
しかしそれは、教師が生徒に上から目線で指導するという様な教育ではない。
昨日のブログ「神はいるか?いないか?」にも書いた様に、
「神」の存在は他人事ではない。
即ち宗教や道徳の問題は、上から押付けられるものではなく、自らの人生を
有意義に、或いは充実したものにする為に、大切な問題なのだと思う。
私が最近読んでいる本に、次ぎの様な事が書いてあった。
1.世の中の行いが乱れるから、仁愛や正義が強調される様になった。
2.人が、欲望に走り、狡猾になったから、だまし合い、疑い深くなった。
3.家族が不和になったから、孝行や親の慈愛が強調された。
4.国家の運営が乱れるから、忠義が強調される様になった。
この内容を読むと、「道・徳・仁・義・信」という概念が生まれ出たのは、
世間や国家の運営の為に、政治的に考え出されたものだという事がわかる。
従って、今迄の道徳や宗教の教育は、地域や国家の運営の為に行われてきた。
民主主義、自由主義の社会というのは、そういう古い体質の社会からの脱皮?
古い社会・古い体制に反抗したのは、そういう上から目線の押付けられた生き方や
道徳ではなく、新しい社会の新しい人間の生き方を創造する為ではなかったのか?
然るに現代は、古い社会・古い体制以上に、人間は「獣」に成り下がっている?
それは、新しい社会をつくるという名目で古い秩序を破壊するだけで、新しい社会も
また、古い社会以上の出世主義、拝金主義の上塗りをしているだけだからでは?
もう一度言う。
民主主義、自由主義の社会というのは、そういう古い体質の社会からの脱皮では?
古い考えに束縛されない民衆が主体というのは、古い社会の道徳からの脱皮では
あっても、健全な社会の為に、新しい秩序を維持する必要がある。一人一人が、
宗教や道徳の問題を、自分の事として取組む心構えが大切である。決して「獣」に
成り下がって良いという事ではないと思う。皆でつくる新しい社会の秩序の為の
新しい道徳や宗教に関する教育とは、そういう自主的な個人の活動を促進する事。
また皆が考え議論して有意義な考えを生み出す為の場づくりでは?如何なものか