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歯と歯の間 [大家族]

この年になってくると歯の健康に一喜一憂という浅ましい事態になっている。
今朝の「NHK・あさイチ」で、「おじさんだけじゃない 歯間そうじ新常識」
というのをやっていた。今、歯間ブラシやデンタルフロス等を使った、
歯と歯の間の掃除が注目を集めているそうである。番組では、
虫歯や歯周病の予防として歯間そうじグッズの選び方・使い方を紹介していた。

それを聴いていて、歯の予防については、全く遅れている!と、思った。
後で考えてみると、医学全般も、予防と言う観点からは決して進んでない!と、
考え直した。治療という面では、難病にも、手立てができたのかも知れないが、
予防には、個人差があるので、どの時点で対策を施すかが明確でない。また
予防は、効果を定量的に把握し辛く、従って商品と成りにくい?
これらの理由が、予防策がなかなか進まないという背景には、ありそうだ。

それでは、歯間そうじグッズが、虫歯や歯周病の予防として何故注目された?
以下に私の経験を踏まえて、私の意見を述べて見たい。
私は、長年、前歯が両側の犬歯で支えるブリッジになっていた。老齢化と共に
犬歯の根がへたるとか、割れるとかして、ブリッジが外れて、何時入れ歯に
なる状況か?というのが、ここ2~3年続いていた。その都度、歯周病予防歯磨粉
を各種変更したり、歯磨粉を使わなかったり歯ブラシを替えたり、歯磨きの時間を
10分/1回にしたりと、様々な対策を講じた。しかし歯間そうじグッズについては
歯間糸は、歯の間に入らないので不使用だった。歯間ブラシについては
良く知らなかったという事もあり、昨年くらいから使いはじめた。

歯間ブラシ使用後も、安定したり、ぐら付いたりしたが、結局、昨年11月頃から
夜は歯周病予防歯磨粉で、朝は普通の歯磨粉で10分/1回磨く様になり
ブリッジのぐら付きが、最近、殆どなくなってきたのである。
こういう経過から推察するに、犬歯の割れた根などが修復されたのでは?
歯周病予防歯磨粉&普通の歯磨粉で10分/1回、日に二回の歯磨きと共に、
歯間そうじグッズによる歯垢や食片除去は、治療効果もあると言う事ではないか?
即ち、歯間そうじグッズには、相当不健康な歯を健康な状態に戻す効果がある?
そういう目に見える効果が明らかになったから注目されてきた?如何なものか

戦う相手は誰?その2 [閑話]

今日は快晴で始まった天気だったが、風が冷たく結構な冷え込みだった。
今年二度目のゴルフ練習(打ちっ放し)に行ったが、スイングで鼻水が飛んだ。
体の軸を動かさない、頭を動かさないのが良いスイングという事だが、
鼻水が飛ぶというのは、体の軸がブレ、頭も鼻水が飛ぶ程うごいているという事か?
鼻水は、腕を飛び越して、直接着地していた。相当のブレである。

「敵を知り己を知れば百戦危うからず」というが、己を知らなければ全敗する。
そこで「今日、鼻水によって一つ自分の認識を深めた」私に全敗はなくなった?
己を知る事も、なかなかに深いものがある。敵を知る事は、もっと深ぁ~い?

今年初回の練習は、60球(200円)だったが、今日は奮発して500円(170球)。
鼻水による自己認識の深まりのお陰でもあるまいが、スイングの極意を1つ悟った。
その為か、些かなりとも飛距離が伸びたような気がする。
私の「老いのゴルフ道」における当面の目標は、飛距離ダウンの減速化を図る事。
今後の事を考えると、如何に体力維持を図っても体力減退は致し方ないだろう。
これからも体力維持には努力するのだが、それだけでは駄目だと思う。

先輩諸氏のゴルフ観察から以下の様な事が読み取れる。
1.下手な人は、年と共に飛距離の落ち方が激しい。
2.下手な人は、球を打つタイミング、リズムが悪く、飛距離、方向が安定しない。
3.上手な人は、クラブの回転速度を阻害しない。腕や体の回転を体力に合わせて
  無理なくスイングして、クラブの力を最大限に活かして球を打つ。
4.体力の違いで、飛距離に差はあるが、上手な人(無駄の無いスイングの人)は
  加齢による飛距離ダウン、不安定化の幅は狭い。
まあ上手な先輩は、ゴルフのキャリア、蓄積練習量が違い、私の様な怠け者には
真似等できないのかも知れない。

以上の様な事を書き連ねる事で、ゴルフ練習の具体的なポイントが明確化した。
私の「老いのゴルフ道」における当面の課題は、筋トレや散歩の継続の重要性と共に
素振り、打ちっ放しによるスイング改良の両面作戦だという事である。
“彼を知り、己を知れば”勝てないまでも負けない(自分で納得できる)のでは?
人生は勝ち負けではない。私の「老いのゴルフ道」も然り!如何なものか

戦う相手は誰? [希望]

この数日、好天が続いている。従来、冬はゴルフを含むスポーツのシーズンオフ。
従って以前の冬はゴルフの素振りを偶にする位で、冬場は筋トレと散歩だけだった。
しかし昨年後半、体力の衰えからか成績が芳しくなく、従来怠け者の私も
いよいよシーズンオフも本気でゴルフ練習をしようと決心した。
今日も素振り100回とチョッピリだがアプローチの練習をした。(風が冷たいため)

コースは12月上旬以来ご無沙汰し、練習場も正月ボケでサボっていた。
しかし例年に比べ、素振りはほぼ毎日やっており、鋭い振りになってきた。
(と自分で自画自賛?)ところが先日、今年はじめての練習に行ってガッカリ。
確かに良い当たりをする様になったが、飛距離は半年位前の良い時と同じ?
結局、毎日の筋トレや散歩、素振り等は、筋力の衰えを何とか食止めているだけ?

そこで改めて「老いとの戦い」は、「自分との戦い」であると思った。
私のいう「自分との戦い」とは、一般的な‘克己’や‘精神コントロール’といった
意味合いとは少し違う。自分と向き合い、ぶつかり合って、本音の自分を追いかける。
自分が成長したい方向、進みたい道、そのために自分が何をしたいのか?
心底からの叫びを聴き届けることである。

私は、2012-10-02のブログ「梅ちゃん先生・余話」で、
「人それぞれ、自分の道を拓くべし」という事を読み取ったと書いた。
 そしてその方法もまた、物語の中で、概略、以下の様に述べられていた。
1.感謝の気持で様々な経験から学べ
  梅子(堀北真希)が父親の教えを感謝で受止めていた。自己を束縛する側面の
  ある父親の忠告からも、優しさを学びとることが、感謝の気持で可能だったのだ。
  様々な経験を感謝の気持で受止める時、負の経験からも素晴らしい教えを読取れる。
2.逆境に立向い、苦労に打ち勝つこと
  信郎(松坂桃李)や竹夫(小出恵介)も、挫折や苦労を重ねたが、そこを柔軟に
  乗り切った。二枚腰、三枚腰の粘り。それは除けても逃げないことでは?
  その秘訣は、土俵を割らないこと、道から外れないこと。苦労を楽しむ様になる事。
私が今、ゴルフに打込む?のは、ゴルフの成績を良くする事が真の望みではない。
「老いとの戦い」で心底の叫びを聴き、私独自の老いの道を開拓すること。
それこそが、私の大切な生き方、私の真の望である。 如何なものか

宗教の問題?道徳の問題? [希望]

私は、2012-12-27のブログ「ゆとり教育再考」において、
道徳や宗教の教育問題を考え直すべきだと書いた。
しかしそれは、教師が生徒に上から目線で指導するという様な教育ではない。
昨日のブログ「神はいるか?いないか?」にも書いた様に、
「神」の存在は他人事ではない。
即ち宗教や道徳の問題は、上から押付けられるものではなく、自らの人生を
有意義に、或いは充実したものにする為に、大切な問題なのだと思う。

私が最近読んでいる本に、次ぎの様な事が書いてあった。
1.世の中の行いが乱れるから、仁愛や正義が強調される様になった。
2.人が、欲望に走り、狡猾になったから、だまし合い、疑い深くなった。
3.家族が不和になったから、孝行や親の慈愛が強調された。
4.国家の運営が乱れるから、忠義が強調される様になった。
この内容を読むと、「道・徳・仁・義・信」という概念が生まれ出たのは、
世間や国家の運営の為に、政治的に考え出されたものだという事がわかる。
従って、今迄の道徳や宗教の教育は、地域や国家の運営の為に行われてきた。

民主主義、自由主義の社会というのは、そういう古い体質の社会からの脱皮?
古い社会・古い体制に反抗したのは、そういう上から目線の押付けられた生き方や
道徳ではなく、新しい社会の新しい人間の生き方を創造する為ではなかったのか?
然るに現代は、古い社会・古い体制以上に、人間は「獣」に成り下がっている?
それは、新しい社会をつくるという名目で古い秩序を破壊するだけで、新しい社会も
また、古い社会以上の出世主義、拝金主義の上塗りをしているだけだからでは?

もう一度言う。
民主主義、自由主義の社会というのは、そういう古い体質の社会からの脱皮では?
古い考えに束縛されない民衆が主体というのは、古い社会の道徳からの脱皮では
あっても、健全な社会の為に、新しい秩序を維持する必要がある。一人一人が、
宗教や道徳の問題を、自分の事として取組む心構えが大切である。決して「獣」に
成り下がって良いという事ではないと思う。皆でつくる新しい社会の秩序の為の
新しい道徳や宗教に関する教育とは、そういう自主的な個人の活動を促進する事。
また皆が考え議論して有意義な考えを生み出す為の場づくりでは?如何なものか

神はいるか?いないか? [閑話]

確か、今日までを“松の内”という。私の解釈では、まだ正月気分が抜け切らない
のん気な連中の気を引き締め、従来の仕事モードに戻す目安の日だったと思う。
時代と共に、正月気分の長さも変化するのだろう。近頃は休み明けから仕事モード?
私は毎日が正月と言っても可笑しくないが、なぜか毎日が日曜(or休日)という。
何故だろう?「毎日が正月」というのは、現役の皆さんに余りにもノー天気と
思われるからだろうか?「姥捨て」されない様に大人しくしなければ!

さて、標題の「神」の存在についてだが、難しい議論をするつもりはない。
「神」という概念そのものが漠然としていて、取り留めがないのである。
ただ最近、私が経験した二つの事象から、気付いた事を書いておきたい。
世の雑音から己を守る為に、様々な事に応用できると思うからである。

お正月のTV番組「マツコと有吉の怒り心頭SP」という番組を視聴している時に
マツコデラックスが「神はいるか?」という質問を投げかけ、有吉が言下に「いない」と
否定。その後マツコが「いないと思うが、分からない」という様な会話をしていた。

何故そんな対話に興味を持ったか?
その前に、本屋の立読みで目にした対話。それは
「東日本大震災を目の当たりにしてあんな酷い事をするなんて神様はいないと思う。
あんたはどう思う?」という質問に、相手は気の無い返事を返しただけというもの。

この二つの事例で、私が感じ取った事は、「神の存在」に関する意見などは、
「発言者(一人称)の意見」を親身に感じ取れることで初めて意味があるという事。
ニーチェは「神は死んだ」と言ったというが、それはニーチェの個人的見解として
意味を吟味する側に主導権がある。
ニーチェの解説者も個人的見解であり、批判的に読み解く必要がある。
東日本大震災の報道に驚いて、神様はいないのでは?と疑うのも、個人的見解?
こういった人は、恐らく、数々の大災害、大戦争の惨状を、他人事としてしか学んで
こなかったから、今更のように驚くのだろう? それが世の中の実情では?逆の
言い方をすれば、数々の大災害、大戦争の惨状を実体験した人が、返って神を信じ、
祈るという事もあるだろう。「神」の存在は他人事ではない。他人事でない事は、
他にも沢山ある。そういう事はしっかり自分の問題として考えよう!如何なものか

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