SSブログ

私の知識と普遍的知識 [閑話]

この記事は、前々回の「私の体験・他人の体験」の続編の様なものである。
普遍的知識とは、自然科学的知識の様な知識を指すが、自然科学的知識とはどんな知識か
と問われれば、私には正確に答える事はできないが、まあそういう知識だという事である。
此処では、自然科学的知識とは、「自然科学の権威ある教科書に書いてある知識」とする。

それでは、「私の知識」とは何か? 「本音と建前」という言葉があるが、
「私の知識」=本音、だと思っている。先日の直覚体験で得られた知識とも言える。
例えばある時、私がゴールを割ったシュートは、どんな名場面、名選手のシュートとも
全く異なる体験であり思い出に鮮烈に残るもの。この自分史の伝説=「私の知識」だ。
例えば後輩と魚釣りに行き、本音は後輩が釣った魚より自分の釣った魚が大きかったと
思っても、後輩の得意げな顔を見て、自分の釣果を誇らず、後輩を立てるという事も?
「私の知識」に、普遍性や客観性はないが、私が生きる上で大切な意味を持つ。

こういう「私の知識」と「普遍的知識」がある事を、時代の変化と共に忘れかけている?
個人の悩み相談に関る占い師や、怪しげな宗教家、或いは詐欺師が、個人の心の隙をつき
金儲けを企む行為は決して褒めた事ではない。なぜなら「私の知識」を利用し、共通点を
抽出し「普遍的知識」に利用するという、「私の知識」と「普遍的知識」を混同する手口が
卑怯だからだ。目的の為には手段を選ばぬという悪人には、十分注意する必要がある。

そこで、最近良くやる「アンケート」や「世論調査」の問題点である。
「アンケート」や「世論調査」による取得データは、「私の知識」或は狭い範囲の世間の
常識とか世論とか「私の知識」の仲間で、少なくも「普遍的知識」の様な客観性はない?
しかし調査結果は、統計学という科学?のフィルターを経ると如何にも「普遍的知識」に
変換された様な状況になる。本当にそうだろうか?統計学による調査は、視点の転換や
新しい視点の創出という事には役立つだろうが、「普遍的知識」と思い込むのは危険だ。
私は常々眉に唾しながら見ている。しかしマスコミによる政治がらみの「世論調査」が、
世論誘導になってしまうのは、多くの人が調査の基本データが「私の知識=本音」或は
常識や世論という曖昧なものという事を忘れ「普遍的知識」と思込むからではないか?
老人が若者批判するのは、世の習いであるが、最近分かった事は、若者というのは常に
「普遍的知識」を尊重する傾向にあるという事である。そして現代は、若い事に対し
大きな価値観を抱く人が老人にも増え、その分、「普遍的知識」を尊重する年齢層も
高齢化したのでは?だから高齢化社会でも世論誘導になってしまう?如何なものか
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。