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私の体験・他人の体験 [閑話]

今日は、天皇誕生日。従って明日は休日になる様だ。毎日が休日の私には関係ない?
実は微妙に関係する。飲食店やゴルフ練習場などの平日割引が無くなるからである。
細かい事はさておき、天皇家のご繁栄を陰ながらお祈り申し上げる次第です。
前回のブログ記事「TVドラマと私」で私は、
“人生で大切なのは、自然科学や理屈で解明できる様な人まね、受売りの経験ではなく、
食う為、生きる為、金の為の体験でもない。自分自身の全体を揺るがす圧倒的体験だ”
という事を書いた。この種の体験を直覚体験と呼ぶなら、直覚体験は、音楽活動や
スポーツ活動、また様々な芸術活動に限らない。仕事を始め、ボランティア、日常の
瑣末な活動、観光、旅行、その他、広汎な活動で体験可能だと思う。

しかし、ある時、同世代に近い人々を含め世代を超えた若者たちの中には、直覚体験と
いう事を知らないのではないかと?と感じる様になった。 何が違うのか?直覚体験は
自分自身を含めて体験する。だが直覚体験を知らない人々は、体験を客観的な知識として
抽出し、知識を我が身に所有するという形態なのではないか?

言い方を替えるならば、私の体験も他人の体験も、入換え可能という事である。例えば
感激や感動の体験を人間関係のほだし(束縛)といった即物的なモノに変換するという事。
「純と愛」物語の事例では、ホテルの客に夢を与え喜んでもらうという事であるが、
それが単に商品のやり取りに見えるのだ。即ち客もホテル側の人間も、何も変わらない。
純のおじいは、素晴らしい夢を与えるホテルマンかも知れないが、その感激や感動が、
純の父・善行(武田鉄矢)の人間性を変化させる事に何の役にも立っていないのだ。
純自身もおじいとの体験を何ら活かしていない。数々の才能を開化した愛(イトシ)も、
弟の死に訳の分からない反応をするだけ。素晴らしい経験は人間性に何の影響も無い?

何故そうなるのか?
直覚体験に等しい経験をしていながら、自ら自身を含む問題として捉えないからでは?
自然科学的態度で、自己と切り離してその種の体験を振返り、知識として所有するから
自分自身の人間性は何も変わらないのだ。どうしてそういう人々が多くなったのか?
理由は、直覚体験習得の方法にある。日本における直覚体験の習得は、幼児時代からの
環境の中に組込まれてきたのである。しかし、時代と共に、西欧流の自然科学的態度、
即ち合理主義が優勢となり、そういった直覚体験の環境が破壊されてしまったのだ。
直覚体験を失った人々は迷い続けるのでは?これからの日本は大変?如何なものか
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