SSブログ

素人と玄人 [閑話]

夏目漱石は、大正三年(1914)に標記と同名(玄人の字=‘黒人’)の評論を書いている。
「玄人」を辞書で引くと、1)物事を専門にしている人、2)芸者、遊女、という解釈である。
「素人」は、「玄人」の反対の意味しか書いていない。
漱石は、上記評論「素人と黒人」で、“素人”を、芸術や文芸の傾向を帯びた普通の人と
して取上げ、並みの“玄人”と比較し、優劣を論じている。そして、並みの“玄人”は、
細部にこだわり、全体(輪郭など)を忘れており、“素人”は、全体像を把握しているから
並みの“玄人”よりも優れていると結論付けていた。

私は、この文章を読んで、漱石はどのような意図があって、この文章を書いたのか?と
疑問に思った。漱石の文章を云々する様な立派な立場ではないが、この文章を他の文章と
比較すると、生煮えの感は止むを得ない。漱石が、この文章を書いた原因は、本評論を
読めば書いてある。ある人との対話の中で、素人と玄人という言葉を用いて、日頃、頭の
中にあった芸術に関する考えを説明したが、納得してもらえなかった。そこで系統立てて
表現しようと試みたのが、この評論文だったというのである。

この評論文の問題は、漱石自身が書いてある文章“素人と玄人との優劣は、芸術界から
解放して、人間の上に加えてみると、存外はっきりするのである云々”から明らかだ。
“素人と玄人との比較問題”は、漱石も上記の文章以下に論じている様に世間一般には
旨く適用できるのだが、芸術の分野に適用してしまうと収まりが悪いのではないか?
それが、漱石にしては珍しい、論旨が生煮えの結果になった理由だと思う。

漱石は、並みの玄人に関して、次の様な特徴があると書いてある。
1)人間の本質とは関係のない上っ面丈を撫で回している。2)要するに玄人の誇りは単に
 技巧の二字に帰着してしまう。
この特徴を、芸術家や文芸作家に適用するとなると、‘並み’という修飾語がついても
色々と問題があるのではないか?売文業というのは文芸ではない?し、芸術家として、
上っ面丈を撫で回した技巧だけの存在というのは、あり得ないと思う。
但し現代の様に、並みでも真の芸術家や文芸作家、科学者が居ない社会には、この評論は
非常に的確な指摘だと思う。昔は、哲学者、聖職者、教職者も、少し前の芸術家や科学者
の様に、人間の本質を忘れず、全体を把握しつつ自己の信念に生き、社会の進むべき道を
照らす灯台の役割を果してきた。今や、そういう役割を担う集団は期待できないのか?
道は、素人の勘を頼りに、自らが照らし出すしかないのではなかろうか?如何なものか
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。