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純対梅ちゃん先生比較論と生きる意味 [物語]

純(夏菜)と梅ちゃん先生(堀北真希)の比較にどんな意味があるのか?
時代背景も違う。梅ちゃん先生は昭和20年~37年の話。純と愛は現代の同時代的話。
従って考え方も違うから、比較には何の意味も見出せないのだろうか? しかし
「純と愛」物語で、トルストイの箴言と思しき言葉が度々出てくる。例えば
“この世には不完全な男と、不完全な女しかいない”などという言葉である。
このフレーズが本当にトルストイの言葉か否かは知らないが、彼自身の夫婦生活での
実感としても、あったのではないか?と、想像できる節もある。

それは兎も角、このフレーズを脚本家が多用するのは、それが肯定的であれ、否定的
であれ、この考え方が、時代を超えて人間の生き方に影響を与えると思ったからだろう。
大トルストイが生きた年代は、1828(文政11年)-1910(明治43年)。梅ちゃんよりも
はるか昔に生きた人である。従って梅ちゃんとの比較にも意味があると思う。

本題の二人の比較だが、端的に父親との関り方を比較対照したい。まず梅ちゃん。
梅子は、医専時代に、友人とのダンスパーティを企画・開催した時に、父親に参加を
要請したが、行かないという。その時、幼い頃の木登りの事を、建造(高橋克実)に
語りかけて「自分たち子どもは、お父さんに見守られているから遠くまで登れた」即ち
お父さんの心遣いによって成長できたのだと説得し、父親の心を和らげたのである。
建造は、昔かたぎの頑固者で、次男・竹夫(小出恵介)は、反抗して父親の敷いた
レールに乗らず我が道を進んだ。学生がダンスパーティなどやるべきでないと反対の
父親に対して、純の様な対応をするなら、建造を更なる頑なな父親にする事は容易?
純は、兄・正(速水もこみち)の結婚式当日において、父・善行(武田鉄矢)に心ない
言葉を投げた。善行との幼い頃の事を、愛(イトシ)の“父親の愛”という解釈まで含め
思い出しながら、「あんたには愛情なんか1つもないから!」と自ら否定してしまう。

梅子と純は、同じ幼い頃の思い出でも、梅子は誰に教わるでもなく善意の解釈をし、
純は、愛(イトシ:風間俊介)の善意の解釈の助けも考慮せず、悪意で人間関係を壊した。
少なくとも、今迄の「純と愛」物語は、二人のナルシシズムという閉鎖的人間関係の中に
閉じこもっていると言わざるを得ない。こういう生き方は人間の生きる意味を理解しない
ものだし、或いは、自分たちだけではなく、周りの人間をも不幸にするのだと思う。
純と愛(イトシ)は、まだ20才代。従って何らかの奇跡が起こって生きる意味を理解し、
真っ当な人間に立ち返ることもあるだろう。しかしその確率は、宝くじに当たる確率?
奇跡を物語る事など簡単である。しかしそんな物語をNHKが語る事は、多くの視聴者に
間違った生き方を示唆してしまう可能性大である。それはNHKがしてはならない事だ。

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