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「純と愛」第35回感想・NHKの意味 [物語]

第35回を見て、「純と愛」の物語は、「子捨て物語」と位置づけた。
純(夏菜)は父・善行(武田鉄矢)に、愛(風間俊介)は母・多恵子(若村麻由美)に
捨てられたという設定だと思う。古今「子捨て物語」は多いが、これ程情けない物語は
少ないと思う。捨てられる時期が、20才代という非常に中途半端な時期だからだ。
従って、この物語は「半端もの」? 実に、実に、情けない物語である。

話の展開からして、「純と愛」は、捨てられたという被害者意識の元、
“二人ナルシシズム”の世界に浸って夢に邁進するという筋書きなのではないか?
“ナルシシズム”、“エゴイズム”は、反社会的、反生命的な存在様式である。
親子関係が10代~20代で破綻するのは、最早、親の責任だけに帰する事はできない。

今日、純が、善行と対立する中で、少女時代の動物園で迷子になった時の事を語って
父親の愛情を確かめ様としたが、善行が頑な態度をとった為に、純は切れてしまった。
「あんたには愛情なんか1つもないから!」というのは余りに酷すぎる。
親に向かって言うべきではない。売り言葉に買い言葉、
善行も「お前なんか生れてこん方が良かった!」と、言ってしまった。

この善行のひどい言葉には、もう1つ理由があった。愛(イトシ)の観相の言葉である。
善行や剛(渡部秀)の観相結果は兎も角、晴海(森下愛子)の観相の結果が悪かった。
初対面の母親に、いくら純がけしかけたからと言って、野獣に譬え、父親との結婚を
後悔している等と言うだろうか?そして愛(イトシ)の観相において最も問題となる点は、
良い所が一つも見えない事である。どんな人間にも良い所と悪い所がある。人間の本性等
そう簡単に決め付けられるものではない。長所、短所を総合的、重層的に考慮すべきもの
ではなかろうか?それなのに、一方的観測だけを丸信じする純の頭もどうかしている。

純の善行への言葉も、善行の純への言葉も、言ってはならない言葉である。
こんな言葉を、20代の子どもと50前後の親が交わすというのは、余程、変な人たちだ。
こんな少数派の異常性格者を中心に据えて、NHKが物語る値打ちがあるのだろうか?
奇を衒う「文学賞」作品や、俗文学、あるいは売れれば何でもありの民放番組なら知らず
NHKのしかも朝の連ドラで取上げるべきものなのだろうか?大変に疑問である。NHKは、
国民から毎月大枚の放送料を徴収している。それはこんな俗悪番組を作る為ではない!
社会風紀を乱し、健全な青少年の育成を妨げるこの種のドラマを止めろ!如何なものか
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