SSブログ

「純と愛」第34回・花婿の脱走 [物語]

今日の「純と愛」物語は、純の兄・正(速水もこみち)の結婚式に絡んで、
純(夏菜)と愛(風間俊介)とが、また“縒り”を戻したという事と
“花婿(正)の脱走”劇だった。従来のパターンでは、花嫁の脱走だった。
お腹の大きい彼女(マリア:高橋メアリージュン)の出現では絵にならない?
ドラマ直後の「あさイチ」で有働由美子が“残された花嫁の気持ちを考えた”とコメント。
それに対して、井ノ原快彦は、“大人としてはね!”と、シャレた応答をしていた。

兄が、生れてくる子どもに対して責任をとるという事で、めでたし!めでたし?
純は、大脱走を大手を振って喜んでいたが、井ノ原の言葉を借りれば、純=子ども?
“純”というよりも、“単純”と名付けた方が当っているのではないか?

私はこの「純と愛」というドラマを見ていて、何故、こんなに人々がいがみ合うのか?
何故、こんなに親子がいがみ合うのか?従順だった正は、大勢の人々に迷惑をかける
結果となる様な「花婿の脱走」を、何故やるのか?どんな特別な理由があって
従来のNHK連続テレビ小説には不似合いな、こんな展開をするのか?疑問である。

生物は、エントロピー増大の法則に反して、動的変動の隙間で生きている。生物は、
ただ欲望のままに生きているのではなく、生存の為に生物は相互扶助しているのだ。
この物語の登場人物は、井ノ原のいうごとく、20才代でも子どもかも知れない。
しかし愛の両親(多恵子:若村麻由美、謙治:堀内正美)や純の両親(善行:武田鉄矢、
晴海:森下愛子)は、子どもとは言えないだろう。彼らを一方的に「悪」として
切り捨てるのなら、人間とか、社会の本質を増々隠蔽し、社会を混乱させるだろう。
そうした隠蔽社会は、最早、生存の為に必要な生物の相互扶助は育たなくなるだろう。

こういう大人たちを軽蔑し、切り捨てて自分達の素晴らしい社会を築くというのか?
政治の世界で“維新、いしん”、“世の中の洗濯”などと騒ぐ輩がいるが、まるで
脚本家も、その同類の様に見えてくるが、どうなのか?言葉によって
「白を黒」と言いくるめる事は一時的に可能だ。しかし言葉の本質は相互理解である。
ドラマが、その言葉の本質をないがしろにして、政治的に活動するのは大問題だ!
情報社会の中で最も大切な国家情報機関が、自分達の利己的な考えから密かに国民を、
あるべからざる利己的人間に洗脳しようとしている?
NHKは、反社会的集団となろうとしているのか?如何なものか
nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。