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「純と愛」北風と太陽と愛の病気 [物語]

今週のNHK朝のTV小説「純と愛」:今週のお題は「北風と太陽」。今週今日までの
物語を視聴していて、愛(風間俊介)の状況を“病気”と見るやり方が「北風」、
愛の状況を“病気”と決め付けないで、暖かく接するやり方が「太陽」と察した。
差し詰め、「北風」派の筆頭は、愛の母・待田多恵子(若村麻由美)、それに続いて
純(夏菜)に好意を持つ水野(城田優)が思い浮かぶ。
「太陽」派の筆頭は純だった?
過去形にしたのは、今日の幕切れで、純が、愛に病院行きを提案したからである。
‘愛に病院行きを提案’が即‘愛の状況を“病気”と見る’という事にはならないが、
純が、微妙に変化している事は否めないだろう。

変化した理由は、今日(第28回)の愛が起した騒動である事は明らかだ。
これと同様の騒動は、第21/22回での指輪紛失事件だったが、この時には純の気持に
ブレはなかった。純が、子どもの観相(指輪を隠していた)を依頼したからである。
騒動を起した直接の原因は、自分にあると思ったわけである。
今回の場合は、愛が、自分で同僚の千香(黒木華)を観相し、千香がクレームの
犯人であると決め付け、襲い掛かったという。何か裏事情があるかも知れないが、
とにかく、普通に見れば異常ではないか?

今迄の展開では、「純と愛」物語は一体、何を言いたいのかよくわからない。
愛の状況は、病気か?病気でないか?見分けにくい境界例・領域の問題かも知れない。
まさか、境界例に悩む人々を勇気付ける物語にしようというのではなかろう?
まあ、こういう精神領域、心理領域の問題は、他人事として無責任に世間話するのは
面白いが、自分の問題として捉えると、随分と重苦しい話になってしまうと思う。
あまり、こういう問題を長引かせても、視聴率は落ちるばかりではないか?

人間は、誰しも独立した人間として生きる事と、人々と係わり合い共存して生きる事
という矛盾する生き方を課せられている。この矛盾する生き方を調和させ両立させて
生きていかなければならないというのが、社会的動物・人間の宿命?この調和感覚
(バランス感覚)は、幼児期からの体験を通じて、自ら養って行くしかない。しかし
一般に多かれ少なかれ、人々は、絶妙な調和感覚を育て上げてはいない。ある意味では
この調和感覚を養い育てる事が「生きることの意味」かも知れない。現代が窮屈な社会
などと言っている様な人は、相当、調和感覚が狂っている? 如何なものか

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