SSブログ

京都歴史散歩2012_9(4) [歴史]

DSC09421離宮図.JPG今回、最後の歴史散歩は、院政時代の鳥羽離宮とその周辺である。例によって計画性もなく京セラ美術館を目指して地下鉄竹田駅に下りて歩く計画だったが、何時もの習慣である駅周辺の地図を駅員さんから入手して眺めて見た。すると途中に、鳥羽天皇、近衛天皇、白河天皇、西行遺跡などがあるではないか!この辺一帯は、鳥羽離宮があったらしい。広大な領域で、東は近鉄京都線西は鴨川、南北は、阪神高速8号京都線の城南宮出入口の北と南で画する位に広かった?最初の写真は、鳥羽離宮図である。鳥羽とは、当時(院政期の頃)の地形が、桂川と鴨川との合流点であった港の地名である。当時の地図を見ると、鴨川と桂川が鳥の羽ばたく両翼の如く見える。それが地名の由来ではないか?(これは私の思い付きだが、新説ではないか?)
DSC09416近衛天皇陵.JPGDSC09426鳥羽天皇陵.JPGDSC09425院政の地.JPG





次の写真は、近衛天皇陵(多宝塔)、鳥羽天皇の安楽寿院陵、石碑(白河法皇、鳥羽法皇の院政の地)などである。白河天皇陵には時間がなくて行けなかった。多宝塔を本陵とする陵は他に例を見ないそうである(宮内庁・陵墓の栞を参照)。西行遺跡として西行寺跡がある。西行は1140年、23才で出家。鳥羽上皇に仕えていた縁で寺ができたのか?江戸時代の「都名所図絵」に描かれている。

院政というものが始まったのは1086年。白河上皇が始められた。鳥羽御殿の造営もこの年からだという。院政時代というのは、我々の学生時代では平安時代に分類されていたが、近年になって、中世の初期に位置づけられる様になったと言う。院政時代の終末は、平家滅亡の1185年か?承久の乱(後鳥羽上皇が北条追討の院宣を出すも負けて隠岐に流された)の1221年か?だそうである。

院政というのは、平安時代の摂関政治の行き詰まりからの維新ではなかったか?天皇親政から上皇(法皇)親政を企図したが、結局この時期に武士の身分が定まり、武家政治へと転換された。明治維新も、天皇親政という美名の基に、薩長藩閥政治が行われた。現代もその延長線上か?如何なものか
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。