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京都歴史散歩2012・9月(2) [歴史]

前回に続いて、雨模様で大谷大博物館を訪問した「物語の世界」の続きを書いておく。
<その2>
「伊勢物語闕疑抄(けつぎしょう)」細川幽斎著。文禄五年(1596:幽斎63才)成立
展示品の古書は、江戸時代・寛永19年(1642)出版。本書物は、有名な「伊勢物語」の
注釈本である。何故、私の心に留まったのか?
それは、幽斎が武将だと説明書きに書いていたからである。
文化人で且つ大名だった織田信秀の十一男・有楽斎如庵は知っていたが、
幽斎に関して、文武に秀でた武将かつ国文学者だったとは知らなかった。

“闕疑”とは、論語から採った言葉で、原本の、「多くを聞き、疑わしきを闕き
(削り)、慎重にその残りを言えば、即ち、咎め少なし」という意をあらわす。
幽斎の学問的な慎重さがうかがわれるのである。

しかし、幽斎は文弱ではなく、文武両道の武将で、室町末期の将軍、信長、秀吉、
家康に仕え、最終的には、息子が小倉藩主、孫が熊本藩主となり現代にまで栄えた。
剣術は塚原卜伝に学び、波々伯部貞弘・吉田雪荷から弓術の印可を受け、弓馬故実
(武田流)を武田信豊から相伝されるなど武芸も一流だったという。
武功には(武器を持って戦う)個人的戦功、将としての戦功、軍略的功績等がある。
ある本によると、幽斎の生涯を眺めると、これら全てに優れていたと言うのである。

幽斎の特徴を最もよく現している事件が、慶長5年(1600年)7月、石田三成らが
家康討伐の兵を挙げた時の、田辺城攻防戦の話である。当時、大坂にあった忠興夫人・
ガラシャは人質になるのを拒んで屋敷に火を放って自害。幽斎の隠居城・田辺城は
5百人程度しか居なかったのに対して、石田三成側は、1万5千人が攻め寄せた。
決死の覚悟で、約二ヶ月の籠城を持ちこたえた。この様な窮地に陥ったのは、家康の
上杉討伐に、息子・忠興と共に多くの兵士が従軍した為であった。

幽斎は、討死覚悟で和睦の調停を断り続けたが、和睦奔走の立役者八条宮がついに
兄・後陽成天皇に奏請した。これにより、勅使が田辺城に下され、9月13日、
勅命による講和が結ばれ、二ヶ月の籠城に終止符が打たれた。その裏には、幽斎が、
一時期、二条派正統を継承していた(説明書き)という理由があった。幽斎は
藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流歌道伝承者・三条西実枝から、古今伝授を受けた。
そしてその子・三条西公国と、更にその子・三条西実条)に返し伝授をしたという。
「芸は身を助ける」という。文芸も此処までになればご立派!如何なものか
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