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梅ちゃん先生_最終回 [思い出]

「梅ちゃん先生」の特徴は、日常の瑣末な出来事を針小棒大に扱って見せ「大山鳴動して
ネズミ一匹」で目出度く収める、という段取である。前回のラストも、芳子(南果歩)が
建造(高橋克実)の様子がおかしいと不穏な雰囲気を漂わせ、梅子(堀北真希)に相談。
幸吉(片岡鶴太郎)が陰で聞いていて、建造に女ができたに違いないと梅子を不安がらせ
面白がって真相究明とおっとり刀で「みかみ」で飲んでいる建造達の所に駆け出した。
揉めさせてはならじ!と梅子も慌てて追いかけた。
「みかみ」から出て来た建造に会った二人は理由を問い質して大仰天!梅子は「エッ!」と
驚嘆の大声を発してしまった。余程の重大事発生!と思うではないか?私等の感覚では、
定年過ぎの男の様子がオカシイとなると、さては癌にでもなったか?と心配してしまう。
梅子の驚声に異変を感じた竹夫(小出恵介)、信(松坂桃李)、加藤(大沢健)たちが
飛び出して、何事が起きたかと追求された。切羽詰った梅子が「お父さんが空飛ぶ円盤を
見たというから」と苦しい言い訳をして、何とかその場は納まった。

最終回は、もう昭和36年(1961)になっていた。“空飛ぶ円盤”のブームはもっと前では
なかったか?30過ぎの梅子が言い出し、60過ぎの病院長・建造がそれに乗り、幸吉まで
「どこにそんなものが見えたんだ?」と真面目な顔をして言うとは!幾ら何でも面白過ぎ。
笑顔だけが能じゃない。しかめっ面でこういう面白い事を言ったり、したりする方が、
余程面白い(わッはっは!)
結局、芳子の心配は杞憂!何と、建造が、「のど自慢」出演を人柄変革の起爆剤として
内緒で出演準備をしていたというのだ。「上をむいて歩こう」を熱唱し、見事鐘を連打!
これには幸吉も恐れ入った様だった。(幸吉は第4週、のど自慢出演。復興節で鐘1つ。
信郎との葛藤があり、現状打開の為に「あきらめ節」から変更し、練習不足の為?)

テレビ画面の「のど自慢」司会者は声も映像も宮田輝自身だった。最初はソックリさんを
探して依頼したものと思ったが、司会者の言葉(芳子の?が審査員に聞こえた)が
聞き取れず、ビデオを繰返し見ている内に、映像が明らかに合成だと気が付いた。
1960年代は、放送用ビデオテープやフィルムが高価な上、アーカイブを収録したテープは
課税対象だったため、一部を除いて番組保存が行われなかったという。そんな時代の
貴重なアーカイブで、宮田輝の映像を視聴できたのは幸いだった。
「梅ちゃん先生」のスタッフにお礼を言いたい。感謝!感謝!

松子(ミムラ)は早、二児の母になったにも拘らず、前髪を垂らしてかわい子ちゃんに
変身しているのに気付いた。“僕の可愛いミヨちゃんは 色が白くて小さくて 前髪
たらした可愛い子 あの子は高校二年生”の歌詞で有名な平尾昌晃作曲・[ミヨちゃん]は
平尾自身が、1960年の紅白歌合戦で唄った。 なかなか面白い趣向だった。

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梅ちゃん_最終週・弥生と山倉 [物語]

弥生(徳永えり)と山倉(満島真之介)との物語は、山倉にとって実に惨めな結末だった?
山倉の登場は第2週目、弥生は第3週目からだから、二人共、昭和20年からの出演者だ。
しかしこの二人の芝居は、そう多くない。梅子(堀北真希)と弥生がインターンを卒業し
医者として勤務し出した第11週(昭和27年頃)から、松岡と梅子の関係を見守る役柄
として弥生・山倉コンビが絡んできたが、そう重要な意味を感じなかった。

「梅ちゃん先生」を振り返ると、梅子と松岡(高橋光臣)との話が随分長かった。
昭和22年の出会いとすれ違いと別れ、そしてインターンになった昭和26年の再会、
さらに、いろいろあって昭和30年、松岡の米国留学でやっと決着がついた。ドラマで
いえば、第6週から第16週までであり、松岡は梅子のパートナーと思い込んでいた。
私の様な視聴者は、梅子と松岡の物語に振り回されてしまった。梅子が松岡と別れて
一年も経たない内に、信郎(松坂桃李)と結婚しようとは!ドラマで言えば第16週で
松岡と別れて、第19週で梅子・信郎の結婚式!何だ?という感じ?

後から考えると、信郎の恋人役・咲江(佐津川愛美)や、ショッキングな死に方をした
坂田先生(世良公則)も、梅子・信郎の結婚の為の当て馬、狂言回しだったともいえる。
兎も角、様々な人々の出入りが激しい「梅ちゃん先生」では、弥生・山倉コンビの話が
なかなかメインにならなかったが、最近、やっと機が熟してきたのかな?
と期待して見ていたが、残念な結果に終わってしまった。

山倉を演じた満島真之介は「おひさま」で好演した満島ひかりの弟だというので、応援
していたが、役柄のせいか?いまいちパッとしなかった。が、此処へきて盛上がった。
弥生は、父親(内科開業医)の引退で家業を継ぐ為に大学を辞めなければならないが、
梅子提案の「内科医と結婚して夫に家業を継いでもらう」という案を採用。結婚相手を
物色し始めた。目の前の山倉を何故考えない?山倉もだいぶ前から弥生に好意を持って
いる素振りがアリアリなのに、私など理解できないが、その辺がこのドラマの真骨頂?
祭りの晩に、梅子に救護所を手伝う様に言われた山倉が手持ち無沙汰にしている時、
同じく梅子に誘われて、弥生がやってきた。弥生と山倉を一緒に祭りに行かせる梅子の
策略だった。昔(第2週)、松子に結婚を申込んで断られ「じゃあ梅子さんを下さい」
と、勢いのあった当時の事を山倉に思い出させ、発破をかける梅子だった。
お参りの帰路、神社石段下の縁台で、山倉が弥生に「結婚相手探し」の状況を聞く。
弥生は「そう簡単には行かない」、そして「全く予想もしない所からヒョッコリ現れる
気もする」という発言をしたが、山倉はどちらにも「そうだね」と気のない返事。
弥生から「いいかげん!」となじられた。

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京都歴史散歩2012_9(4) [歴史]

DSC09421離宮図.JPG今回、最後の歴史散歩は、院政時代の鳥羽離宮とその周辺である。例によって計画性もなく京セラ美術館を目指して地下鉄竹田駅に下りて歩く計画だったが、何時もの習慣である駅周辺の地図を駅員さんから入手して眺めて見た。すると途中に、鳥羽天皇、近衛天皇、白河天皇、西行遺跡などがあるではないか!この辺一帯は、鳥羽離宮があったらしい。広大な領域で、東は近鉄京都線西は鴨川、南北は、阪神高速8号京都線の城南宮出入口の北と南で画する位に広かった?最初の写真は、鳥羽離宮図である。鳥羽とは、当時(院政期の頃)の地形が、桂川と鴨川との合流点であった港の地名である。当時の地図を見ると、鴨川と桂川が鳥の羽ばたく両翼の如く見える。それが地名の由来ではないか?(これは私の思い付きだが、新説ではないか?)
DSC09416近衛天皇陵.JPGDSC09426鳥羽天皇陵.JPGDSC09425院政の地.JPG





次の写真は、近衛天皇陵(多宝塔)、鳥羽天皇の安楽寿院陵、石碑(白河法皇、鳥羽法皇の院政の地)などである。白河天皇陵には時間がなくて行けなかった。多宝塔を本陵とする陵は他に例を見ないそうである(宮内庁・陵墓の栞を参照)。西行遺跡として西行寺跡がある。西行は1140年、23才で出家。鳥羽上皇に仕えていた縁で寺ができたのか?江戸時代の「都名所図絵」に描かれている。

院政というものが始まったのは1086年。白河上皇が始められた。鳥羽御殿の造営もこの年からだという。院政時代というのは、我々の学生時代では平安時代に分類されていたが、近年になって、中世の初期に位置づけられる様になったと言う。院政時代の終末は、平家滅亡の1185年か?承久の乱(後鳥羽上皇が北条追討の院宣を出すも負けて隠岐に流された)の1221年か?だそうである。

院政というのは、平安時代の摂関政治の行き詰まりからの維新ではなかったか?天皇親政から上皇(法皇)親政を企図したが、結局この時期に武士の身分が定まり、武家政治へと転換された。明治維新も、天皇親政という美名の基に、薩長藩閥政治が行われた。現代もその延長線上か?如何なものか
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梅ちゃん先生_最終週・梅子と広志 [物語]

「梅ちゃん先生」も最終週(第26週)になった。兎も角、梅子(堀北真希)と広志
(池松壮亮・少年時代;細田龍之介)との出会いは古い。終戦直後(昭和20年)
戦災孤児のヒロシ(細田龍之介)は盗みをして生活していた。そんなヒロシと縁ができた
梅子が或る時、食中毒で瀕死のヒロシを見つけ、建造(高橋克実)による懸命の治療と
梅子の看護によってヒロシを助けた。この体験が、梅子の医者志望の原体験となった。
ヒロシにも転機となる体験だったが、梅子にとっても人生を左右する貴重な体験だった。

第25週、広志(池松壮亮)が突然、安岡医院を訪ねてきて二人の再会は果された。
広志は小さいながら製薬会社の営業マンとして立派に成長していたが、梅子が紹介した
かつての勤務先・帝都大病院で色々な軋轢を生んだ。また新しくできた大病院のことで
梅子の医院を心配して大病院への就職を斡旋するが、それも梅子に断られてしまった。

広志は、建造や梅子に助けられた直後におじの家に引取られたが、その当時から家業の
材木運び等の重労働を強いられ、中学卒業後は夜学で大学まで卒業して、就職したのだ。
安岡製作所に集団就職した光男(野村周平)も厳しい人生と言えるが、光男には故郷には
暖かい家庭がある。なかなか立派な爺さんの教育も受けて、職場の人々の温かな支援で
夜学にも行っている。広志に比べたら、光男はどんなに幸せかが分かるだろう。

広志は、一人でも多くの患者の命を救いたいという思いで、懸命に働きすぎて、梅子の
医院に薬を届けに来た時に過労で倒れてしまった。その時に、朦朧とした意識の中で、
食中毒で苦しんでいる最中の事を思い出して、突然、「嘘だ!」と叫んだ。食中毒で
苦しんでいる最中「生きていても仕方ない」と言うヒロシに梅子は、「生きていれば
キッと良い事がある。頑張って生きていると神様からのご褒美がある」と言ったのだ。
ヒロシは、その言葉を信じ自分の助かった命を活かす「患者の命を救う」という使命感
に燃えて頑張ってきた。その経緯を考えると広志が安岡医院を訪問した再会の時点で、
既に、自分の行き詰まりを潜在的に感じて、下村家に近づいたのではなかろうか?

梅子は、広志への自分の対応を反省した。そしてその答えは?以前に約束したと言う
母・芳子(南果歩)手作りの“おはぎ”だった。広志が眠っている間に、両親を千葉から
わざわざ呼寄せて、回復した広志に食べさしたのだ。広志に必要なのは、家族のような
人の温もりなのだ。広志は、芳子や建造とも再会を果たして、大きな温もりを得たのだ。
<蛇足>今日朝方は限りない蒼天だったが、午後の散歩の時には雲が出た。田は黄金の波、
そこ此処に秋の花が咲き乱れ、日陰の風はことのほか心地よく感じた。如何なものか
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京セラ美術館など [散歩]

京都散歩記事も長引いたが、今日は京セラ美術館などの鑑賞から派生した話をしたい。
そもそも京セラ美術館に、どんな目的があって行ったのか?後で考えたら???となった。
特に展示されているものに、前もって特別の興味があった訳ではない。
それでよくよく考えを巡らせたら、その日は、美術館等の休館がやたらある日なのに、
京セラ美術館は、開館していたから行ったという訳である。

隣に見本市や大きな会議のできるパルスプラザというビルがあり、中にレストランもある。
昼食は、そこできのこスパゲッティ(野菜サラダと飲物付)を食べた。中々美味しかった。
お値段は千円札で二百円弱のお釣をもらった。サービスもよく、スペースもゆったりして
京セラ訪問に幸先の良さを感じたが、その感触は間違っていなかった。

京セラ美術館には、ピカソ87才の時の銅版画347点、東山魁夷「山霧幽玄」、平山郁夫の
「平等院」、吉井淳二「市場」、その他の絵画、彫刻等なかなか見応えがあった。しかし
私が、最も魅せられたのは、ファインセラミック茶器「玉磁」と、乾隆ガラスであった。
その理由は、「玉磁」や乾隆ガラスを観覧している時に、丁度団体さんが入って来られ
それに付き添う案内の方(案内係ではない?もっと偉そうな人)の説明が良かったからだ。

“乾隆ガラス”は、中国清代に作られたガラス製品の総称だそうだが、特に乾隆年間
(1736-1795)に作られたものが優れているので、この名が付いたとのことである。
「玉磁」は地色も絵模様も、様々なものがあったが、地の色はうわぐすりを使う陶磁器と
違い、中まで同じ色だという。

「玉磁」には、艶消しと艶出しのものがあるが、艶出しのものは、磨き上げるという。
有名な陶芸家が、艶出し玉磁表面の光の反射具合が完璧過ぎるのを見て「気色悪い」と
表現したそうである。玉磁の絵付けはマイセンの専門家に依頼して開発したという。
ファインセラミックの焼成は1800℃という高温だから、普通の絵具では旨くのらない。
しかも色によって仕上げの温度が異なるという大変な手間がかかるという。また玉磁は
陶磁器に比べて丈夫であるという。玉磁発表の日に、稲盛会長が絨毯の上ではあるが、
放り投げたという逸話も紹介してくれた。「玉磁」のお値段は、百万弱~数百万円?
らしい。さすが稲盛会長、太っ腹!

そんなこんなで、最初は見る気のなかったファインセラミック館も見物した。そこで
私は、中国・長江の中・下流域から出土した5千年前の玉器に施された極めて精巧な
紋様の彫刻と、その複製品の再現に関する苦労話を知った。

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京都歴史散歩2012_9(3) [歴史]

Winterhalter_Elisabeth_2.jpg今日の京都歴史散歩は、昨日までの和ものと異なり、洋ものである。
和ものは、平安時代の平康頼、安土・桃山時代の細川幽斎だったが、
洋ものは19世紀(近代)、オーストリア=ハンガリー二重帝国史終末期の
皇妃エリザベート(1837年12月24日~1898年9月10日)という女性だ。
美術館「えき」KYOTOで9/7~10/28まで開催されている「輝ける皇妃 
エリザベート展」を観覧したが、それは、全く奇縁によって導かれた。
予定していなかったことである。

さて、エリザベート展の感想を書こうとする時に、その時代背景の複雑さに困惑する。
オーストリアは、神聖ローマ帝国の正統を継ぐ存在だったが、17世紀のマリア・テレジア時代
までで、その後衰退していく。フランス革命、ナポレオン戦争、産業革命等の波、そして
エリザベート時代には、共産主義も台頭してくる。列強と言われるイギリス、フランス、
ロシア等も、それぞれ事情を抱えていたから、すぐどうこういう事はなかったが
大変な激動の時代だった?時代考察は置き、エリザベート展の略歴と感想に入ろう。

誕生は1837年で、今年生誕175周年。キリストと同じ誕生日だった。誕生の時、既に歯が
二本生えていたという。これは幸運の印とされた。(私の感想:強健な体質では?)
老境になったエリザベートが幼い頃の思い出を語った内容は、「私は疲れるという事が
ありません。父親のお陰です」。彼女は「蝶のように、地面に足を触れないように」
エレガントに歩いたが、父親譲りで決して静かに座っていられなかったという。

結婚は1854年、満17才になる前の春。結婚や結婚後の生活については他の資料も多い
から省略する。此処では私が感心した彼女のトレーニングの事を書いておこう。
美貌の探求の為?平行棒、吊り輪、鉄アレイを使った体操、重量挙げを毎日欠かさずに
実行していた?激しい馬術やフェンシングの訓練、それに長距離の速歩もしたという。
速歩に同行する女官達は、皇妃についてこられる事が条件だったらしい。乗馬技術も
超一流、オリンピックで優勝する程の腕前だったと言う。 展覧会でエリザベートの
装身具などを見ると、我々庶民と比べれば贅沢だが、列国の王妃などの装飾品と比べ
れば、どちらかと言えば質素な位では?と、私は思った。1898年、エリザベートは
無政府主義者の凶刃に倒れ、この世を去った。彼女の生涯は、後世、毀誉褒貶様々だが
それは彼女が、余りに絶世の美女であり続けた為の僻み根性があった?と、私は思う。
劇的な結末によって、当時の世の人々から満腔の同情をかい、世紀のヒロインとなった!
美貌と共に健康を追求をする人に、悪い人は居ない? 如何なものか
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京都歴史散歩2012・9月(2) [歴史]

前回に続いて、雨模様で大谷大博物館を訪問した「物語の世界」の続きを書いておく。
<その2>
「伊勢物語闕疑抄(けつぎしょう)」細川幽斎著。文禄五年(1596:幽斎63才)成立
展示品の古書は、江戸時代・寛永19年(1642)出版。本書物は、有名な「伊勢物語」の
注釈本である。何故、私の心に留まったのか?
それは、幽斎が武将だと説明書きに書いていたからである。
文化人で且つ大名だった織田信秀の十一男・有楽斎如庵は知っていたが、
幽斎に関して、文武に秀でた武将かつ国文学者だったとは知らなかった。

“闕疑”とは、論語から採った言葉で、原本の、「多くを聞き、疑わしきを闕き
(削り)、慎重にその残りを言えば、即ち、咎め少なし」という意をあらわす。
幽斎の学問的な慎重さがうかがわれるのである。

しかし、幽斎は文弱ではなく、文武両道の武将で、室町末期の将軍、信長、秀吉、
家康に仕え、最終的には、息子が小倉藩主、孫が熊本藩主となり現代にまで栄えた。
剣術は塚原卜伝に学び、波々伯部貞弘・吉田雪荷から弓術の印可を受け、弓馬故実
(武田流)を武田信豊から相伝されるなど武芸も一流だったという。
武功には(武器を持って戦う)個人的戦功、将としての戦功、軍略的功績等がある。
ある本によると、幽斎の生涯を眺めると、これら全てに優れていたと言うのである。

幽斎の特徴を最もよく現している事件が、慶長5年(1600年)7月、石田三成らが
家康討伐の兵を挙げた時の、田辺城攻防戦の話である。当時、大坂にあった忠興夫人・
ガラシャは人質になるのを拒んで屋敷に火を放って自害。幽斎の隠居城・田辺城は
5百人程度しか居なかったのに対して、石田三成側は、1万5千人が攻め寄せた。
決死の覚悟で、約二ヶ月の籠城を持ちこたえた。この様な窮地に陥ったのは、家康の
上杉討伐に、息子・忠興と共に多くの兵士が従軍した為であった。

幽斎は、討死覚悟で和睦の調停を断り続けたが、和睦奔走の立役者八条宮がついに
兄・後陽成天皇に奏請した。これにより、勅使が田辺城に下され、9月13日、
勅命による講和が結ばれ、二ヶ月の籠城に終止符が打たれた。その裏には、幽斎が、
一時期、二条派正統を継承していた(説明書き)という理由があった。幽斎は
藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流歌道伝承者・三条西実枝から、古今伝授を受けた。
そしてその子・三条西公国と、更にその子・三条西実条)に返し伝授をしたという。
「芸は身を助ける」という。文芸も此処までになればご立派!如何なものか
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京都歴史散歩2012/9 [歴史]

今日は秋分の日の一日前だが比較的涼しい散歩だった。「暑さ寒さも彼岸まで」
不順な天候など、異常が目立つこの頃であるが、何かホッとする言葉である。
先日(9/18)京都は彼岸の前に既に涼しかった。雨模様で大谷大博物館を訪問した。
「物語の世界」と冠して、12の物語、7つの軍記・歴史、9の説話等を展示していた。
その中で、心に残った事を書き記しておきたいと思う。
<その1>
「宝物集」(ほうぶつしゅう)平安末期の仏教説話集。何故この物語に目が止まったか?
著者・平康頼(やすより)が数奇な運命の人だからである。今年の大河ドラマの「清盛」
と同時代人である。ドラマは見ていないが、康頼は登場しないと思う。それは彼の伝説が
余りにも美しすぎるからである。

展示の書物・「宝物集」は、江戸時代(1635)出版。物語成立は、治承三年という。
説明書には、康頼が、“鹿ケ谷事件・治承元年(1177年)6月”の関係者として捕縛され
俊寛・藤原成経と共に、薩摩国鬼界ヶ島へ配流。首謀者・西光はその場で斬首。康頼は、
翌年成経らと中宮徳子平産のための大赦?で召還され帰京。その後、本説話集を編んだ
とされている。物語は、或僧侶が鬼界ヶ島(硫黄島)流刑の恩赦で帰京して、嵯峨野・
清涼寺釈迦堂における談義を傍聴する所から始まる。この僧侶は著者本人ではないか?
と思われる(説明書きから引用)。

西光は即時処刑、俊寛は特赦されないのは罪が重いからだろうが、1年で許すならば
硫黄島まで送らなくてもよさそうな気もするが?何か理由があったのだろうか?
“鹿ケ谷事件”は、近年の研究で、‘実は清盛の陰謀’という説もあるらしい。
西光は相当性質の悪い成り上がり者だった?後白河上皇は、ろくでなしの取巻き?
しかし平康頼は、立派な性根の持主だったという事になっている。以下は伝聞。

康頼が二十歳頃に、主人(尾張国の国司)の目代として尾張に派遣されたときの事。
尾張には平治の乱の敗走途中、重代の家来に湯殿で殺された源義朝(源頼朝の父)の墓が
あったが、荒れるに任せていた。康頼はこの敵将の墓を修理して堂を立て、僧を置き
不断念仏を唱えさせ、その保護のために水田三十町歩を寄進した。
その行状が評判を呼び、後白河上皇側に、武士道の礼節をわきまえた頼もしい若者と
好印象を与え、近習に取立てられた。また清盛側にも武士の鑑、一門の名を高めたと
好評判だったという。後白河上皇も、良い部下を持ちたかったのだろう。


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京都散歩2012-9月 [散歩]

嵐まだ去りやらぬ今日、高速を走り京都へ早すぎる彼岸の墓参りをした。途中の高速では
強風と雨で、結構、車の走行が不安定になったが、京都に着いてからは天候も回復した。
今日のブログは、京都四条界隈の何の事はない写真の羅列。

DSC09404.JPG最初の写真は、西洞院四条の角になる「化粧水」の湧水があった?小野小町(山形(出羽の国)の生れという)の別荘の跡。写真を撮っていると、道行く人が、振り返って、写真の立札を見ていた。私の様なよそ者ではないと思うが、そんな立札を写真に撮る人も珍しいのかも?


DSC09406天満宮降誕の地.JPGDSC09408道元じじゃく.JPG次の写真は、菅原道真降誕の地の石碑である。西洞院通りに面した四条から高辻通り手前にある菅大臣神社鳥居のそばにある。

次の写真は、道元禅師示寂の地。禅師は鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。ネットによると、「建長5年(1253年) 病により永平寺の貫首を、弟子孤雲懐奘(『正法眼蔵随聞記』を編す)に譲り、俗弟子覚念の屋敷(京都高辻西洞院)で没す、享年54(満53歳没)。」とある。西洞院通りを高辻通りで西に入ると間もなくである。

DSC09412伏見道.JPGDSC09414秦家.JPG禅師示寂の地を少し西に行ったところの東中筋通りの入口に、「ふしみみち」という石柱があった。

高辻通りから、油小路を北に向けて歩いていると、「秦家住宅」という京都の旧家の家があった。

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梅ちゃん先生_第24週の感想 [物語]

今週は、安岡製作所に、新幹線部品の注文が舞い込んでくると言う話から始まった。
時節は、昭和33年(1958)11月以降である。その頃、在来線電車特急・こだま登場。
梅ちゃん先生・第24週のテーマは、「明日へのバトン」。このテーマを考えると、
新幹線部品の受注は、信郎(松坂桃李)の成長を暗示していたのではなかろうか?
幸吉(片岡鶴太郎)には、残念ながら「明日へのバトン」を信郎に託すといった乙な
芝居は似合わないから、部品発注元の社長が、信郎を信任する形を採ったのだろう。

松岡(高橋光臣)の留学からの帰国と、帰国報告講演は、松岡が建造(高橋克実)の
バトンの受け手として成長したことを表現するものだった。千恵子(宮武美桜)の
進路問題と、梅子(堀北真希)、相沢(銀粉蝶)の活躍は、相沢がバトンの託し手だ。
千恵子の成長に伴って、父母の和也(滝藤賢一)と康子(岩崎ひろみ)も成長して、
娘の夢を自分達の夢として、娘に託したのだった。

光男(野村周平)の夜学の話は、建造(高橋克実)が言い出したことであったが、
安岡製作所の幸吉、信郎、木下(竹財輝之助)が揃って嫌学の精神のため頓挫した。
だが信郎は、建造の気持を理解した梅子が、光男に語った建造の思いを心で受止め、
建造の言葉「人から人へと受け渡していく事の必要性」を理解した。信郎は、
光男の進学辞退を職場環境にある事を承知の上で、皆の前で光男に夜学の入学願書を
渡して記入するように言った。現在や光男自身の必要性からではなく、安岡製作所が
発展した時の準備の為に、夜学進学を業務として命令したのである。信郎は体系的な
学問には無学でも、素晴らしい感性をもち、梅子を妻に迎え太郎を授かり、精神的に
大きく成長した。環境から大切な事を学び実生活に活用していく見所も根性もある
人間だと思う。信郎は建造のバトンを、しっかり中継ぎして光男に託したのである。

今週の最終回は太郎の一才の誕生祝と、建造の退職祝の宴会があった。その時、
昨日のブログの最後に書いた「建造の決断」が発表された。それはまだ引退したく
ない気持があり、千葉の病院からの誘いで、病院長になるというものである。
「死ぬまで医者でいるべき」だと思ったらしい。また、建造が近くに居なくなる事に
不安を感じた梅子に対して、建造は「大丈夫だ!・・中略・・梅子!一人前になったな!」
と免許皆伝を言渡したのだった。梅子もまた、バトンを託された。バトンを託された
のは、松岡、梅子、そして千葉へ出発の時に後事を託された信郎。如何なものか
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