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正義と懐疑主義の間 [閑話]

先頃、マイケルサンデル教授の「正義」に関する話が話題になった。哲学という
お堅い哲学という学問領域の話題としては、異例のブームだった。それは、現代が
何事も相対的で、何が真実なのか?正義なのか?分からない?懐疑主義に陥っている
から、それに対する一種の反動だったのだろう。しかし出版業界などが仕掛けた、
この発作的・反動的活動の成果は、組織的に、何か見える形で有ったのだろうか?
何か成果が有ったとすれば、その議論に出会って、真剣に取組んだ人々の心の中に、
今後とも、継続的に取組む意思が芽生え、ジワジワと成長していく事だと思う。

話は、チョッと横道に逸れる。
昔の日本文化は多層的であった。支配階層はお堅い考え方を尊重しても、町人文化では
固い考え方は、昔から「野暮」と相場が決まっていた。「粋」を最も、尊重した。
欧米は、文化は「上流階級」の専売の様に言われ(少なくとも現代日本ではそう解釈?)
最近の日本もそれに追従しているかに見える。欧米にも中流・下流の文化はあったが
いつの間にか尊重されなくなった?日本も、それを追従している?正に「猿真似」?

私は、日本には、バブル崩壊前位までは、上流・中流・下流など多層文化が存在していた
と思う。バブル崩壊によって、多層文化を生きた人々が、急速に力を失って行ったために
多層文化も急速に衰えたと思う。そして、その頃から「平成維新」の声が大きくなった。

「平成維新」は、今現在も言われており、橋下某などがわめいている。「昭和維新」
(15年戦争の中での暴力クーデター)を振り返ってみれば非常にハッキリしているが、
国民が熱狂して、「気が狂った状態」、「現実を冷静に把握できない状況」である。
「平成維新」も正に、そういう状況に至りつつあるのではないか?

明治維新の後も昭和維新の後も、日本は再び多層文化に戻った。それは、日本人が
戦争という熱狂の中でも、多層文化を維持する価値観を捨てなかったからだ。
バブル崩壊後の日本は、多層文化を維持する価値観を見失い、欧米の「上流社会志向」、
「悪の過剰主義」を見習って恥じる気配もない。日本社会全体が、システムによって、
欧米的に人々を操作し、そして自己も巻込まれて操作される仕組みの中に沈没寸前?
社会全体が、懐疑主義という無責任な思想に流され、何かに熱狂して、狂気の世界を
望んでいるのではないか? この様な時にこそ人々は、「己に勝つ」必要があるのでは?
如何なものか
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