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ハラハラ散歩 [大家族]

◎ ハラハラと ハラハラと散るさくらかな  (拙作)
今日は気温も上昇し、風もあまりなく、満天の青空で、まことにのどかな春日和であった。201204121304足高さくら.jpg
今日は妻と足高山に、もう見頃も終わろうとしている桜見物に出かけた。
足高山の桜は、我々夫婦にとって貴重な想い出である事は、これまで何度も
ブログに書いた。
昭和50年(1975)前後、私の仕事の関係で3月から4月上旬一杯
休日のない日が続いたので、花見をする暇もなかった。
しかし遊び好きの我々夫婦は、少し早く帰宅できた夕方の薄暮、
ホンの1~2時間、まだ小さかった子ども達を連れて足高山の神社内の
小さな桜の下で花見をしたものである。何年続いたか?

ハラハラと散る桜の花びらを、‘きゃっきゃ’言いながら追いかけたり、積もった花びらを両手
一杯すくっては、それを振り撒いたりしていた。その時の無邪気であどけない子ども達の姿が、
今もくっきりと瞼に浮かぶ。あれから40年近くなり、その時の桜も大きくなった。(写真)
その後、桜の名所といわれる様な場所なども含め沢山の花見をしたが、足高山の花見は雪に
降られ震えながらの皇居お堀端の花見(妻の誕生日に満開)と双璧をなす思い出である。

足高山の花見は桜の木は二本しかなかった。花より団子というが花見弁当もなく、酒もあった
かどうか?実に質素な花見だった。それが私の人生、最高の花見になるというのは、どういう事
だろうか?思うに、それは私の人生観、それも老いた後にたどり着いた心境の賜物だと思う。
恐らく壮年時代の私は、足高山の花見のことを、殆ど記憶の外に追いやり忘れていたと思う。
そして私は、成功や富を得るために懸命に努力していた。しかし私は、人生の成功者ではなく、
敗残者になった。丁度、2009-08-11のブログ「閑話'09_0811[大家族]」(下行のURL)
http://thanks-moto39-inaka.blog.so-net.ne.jp/2009-08-11
で取上げた詩・「病者の祈り」と同じ様な結果となった。健康だけは人並み?だが、力、富、
権力等には縁がなく、老後は無力、貧困となった。しかしそのお陰で「病者の祈り」の作者と
同様に、神にひざまずく弱さを頂いた。そういう謙虚さと感謝と共にある事で、私の人生は、
足高山や雪の皇居お堀端の花見といった、珠玉の輝きに満ちた人生になったのである。

今日、思い出の桜の木の下で妻と花を愛でていた時に、ふと一陣の風が吹いて、
ハラハラと花びらが散った。何とも言葉にあらわせぬ、尊い一瞬だった。
◎ 久方のひかりのどけき春の日に しずごころなく花の散るらん (古今集84番:紀友則)
は、風も吹かぬのどかな春の日に散る桜の光景のような気もする。風がなければまだ散らぬ
桜が、ふと吹いた風でハラハラと散るのは、去る我々への挨拶だったのか?如何なものか
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