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春うらら散歩 [散歩]

今日も昨日に続き好天で、おまけに風も余りなく、光線も暖かで、春の陽気を満喫した。
散歩途中、1-2歳位の可愛い女の子が、三輪車に腰掛けて何とも幸せそうな顔をしていた。
ニコニコしながら何かブツブツ言っていたが、子ども同様に幸せそうにして座っていた
お母さんに話しかけていたのかも知れない。特に意味もない片言だろうが、この陽気の
素晴らしさを片言で共有している母子に、幸せのオーラが輝いて見えた様に思えた。

それで五ヶ月前に「幸福感」について書いた一連のブログの事を思い出した。幸福感には、
更に様々な形態や性質がある事を、今日の散歩途中に見かけた母子の様子から学んだ。
「幸福感」には、環境要因もあるが、環境要因が欠けたらなくなるとは限らない?例えば
今日の様な陽気は「幸福感」をもたらすが、陽気の欠如が「幸福感」の喪失に直結するか?
もっと直截な例で言えば、経済的自由・不自由で「幸福感」に変化を来たすとは限らない?
それらは皆、個人的問題で、相対的か絶対的かは、人により異なるのではなかろうか?

私は、2011-12-01のブログ「絶対幸福感覚はあるか?」で、「病者の祈り」という詩を例に
作者が重要体験を通して、能力、健康、富、権力等の有無に左右されない「絶対幸福感覚」に
到達したのではないか?と結論付けた。即ち「絶対幸福感覚」の存在を肯定した。
「絶対幸福感覚」とは、自己の奥底から真の幸福を感受する感覚能力の事である。例えば
今日の様なうららかな春の陽気に、その素晴らしさを感受し、幸福を分かち合う能力だ。
2012-03-14のブログ「春日和」で引用した芭蕉の句
◎ よく見れば なずな花咲くかきねかな 芭蕉 貞享3年(1686) 芭蕉43歳
について、鈴木大拙は、『禅と精神分析』の中で、次の様に解説している。
「・・微塵も見せかけのない美しさ。・・その時、芭蕉の胸の内には、何とも言えぬある感じが
脈打っていたに違いない。キリスト教で言う“divine love(聖なる愛)”に通じる宇宙に
満ち満ちている生命の最も深い底に到達しているものなのだ。」

うららかな春の陽気の素晴らしさを感得できる事は、人間に「絶対幸福感覚」が本来的に
備わっている事を示しているのではないか。最も深い底に到達しているか否か別にすれば、
春の陽気は宇宙に満ち満ちている生命そのものなのだから。科学は、精神的豊かさを追求
した余禄だった。目的を見失い、科学を安易な物質的豊かさ追求の手段にする事は人間を
苦しめる?しかしその苦悩を通して人は「絶対幸福感覚」の底に徹し得る?如何なものか
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