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春日和 [和歌・俳句]

今日は久しぶりの快晴だった。雲は北西の地平線に近い所に隠れる様に少し浮かぶだけ。
午前中は風もなく、暖かな日差しにうっとりしてしまった。とは言え、いまだ早春である。
春霞にけぶる陽春とは異なり、凛とした気迫の様なものを感じる。感謝!感謝!である。
啓蟄と春分に挟まれた微妙なこの時期を、昔の人はどんな思いで過ごしたのだろうか?
ふとそんな事が頭をよぎった。

芭蕉の俳句に次のような句がある。
◎ 藻にすだく 白魚やとらば消えぬべき  桃青 延宝9年(1691) 芭蕉38歳
歌意:藻に群がり集まる白魚は、清らかに透きとおって、はかなく美しい。しかしそれを
   手にすくい取ろうとしたら、たちまち消え失せてしまうであろう。
この句は、美しいものを、我がものに独り占めしようとする俗な心を戒めている?
私は、この句の白魚に、今日という非常に微妙な春の季節感との共通点を見た気がする。
芭蕉のこの句には、類似の作品が多くあるようだ。例えば、古今集・巻第4 秋歌上
◎ 折りてみば 落ちぞしぬべき 秋萩の 枝もたわわに 置ける白露 (読人知らず)
歌意:秋萩の枝に、たわむほど美しい白露が置かれているが、枝を折ろうとすれば白露は
   アッという間に落ちてしまうに違いない(だから、そのまま愛でるのですよ)

古今集の和歌は、秋の歌であるが、季節を通しての日本人の美意識があると思う。
日本は紙と木の文化であり、西欧は鉄と石の文化、というたとえ話があるが、日本人には
上述した様な日本の美意識が、古代(奈良・平安時代)以前の遠い昔から、強くあった。
鈴木大拙は、芭蕉の句と、テニスンの分析的説明的な花の詩を比べて東洋と西洋の違いを
論じている(『禅と精神分析』)。芭蕉の句とは、
◎ よく見れば なずな花咲くかきねかな 芭蕉 貞享3年(1686) 芭蕉43歳
路傍の雑草の花に着目する時、芭蕉と咲いたなずなとは一体となって、命を感じ取る。
それに対して、テニスンの詩は、花と観察者は切断され、従って命を共有できない。
まるで、白魚をすくい取り、萩の枝を折る行為そのものの様にみえる。

西洋が蓄積した文化は、科学を媒介としてきたが、それは、本来基督教を抜きにしたら
科学による間接的な解釈となって、命を汲み取る認識にはたどり着かないのである。
日本(や東洋)では、認識の間接性の問題に古くから気づいていた。そこで上述の和歌や
俳句の事例、鈴木大拙の事例の様に「直接体験」の重要性を、日本人の美意識という中で
無意識の領域を活用し、追求・指導してきたのである。如何なものか
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