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火の発見と原発 [閑話]

朝日新聞に、福島原発事故を検証する目的で「プロメテウスの罠」と題する連載記事が
掲載されている。ギリシャ神話では、プロメテウスが人類に「火」を与えたとされる。
従ってこの連載は、原発を「火」の延長上と捉えているのであろう。しかしこの見方は
余りに迂遠?「火」は‘燃焼反応’だから、原発でそれに相当するのは‘核分裂反応’?
福島原発事故は‘核分裂反応’そのものの問題でない事は、「火」を見るよりも明らか?
生齧りの西欧文明を持ち出し知ったかぶりする記事内容は、民衆を惑わす元ではないか?

福島原発事故の問題は設備開発・設計、廃棄物処理等を含む設備保守の問題ではないか?
そういう視点から考えた時に、2009-12-13のブログ「非合理と不合理」で取上げた荘子の
“「つるべ」という仕掛けを使わずに厳しい労働をするお百姓の話”を思い出した。
西欧は、この話に出てくるお百姓の生き方、或いは朝顔につるべとられてもらい水をした
加賀の千代女等とは違う生き方を選び取ったのである。そして、日本のみならず、偉大な
お百姓さんや荘子を先祖に持つ中国さえ、西欧の軍門に下った。
軍門に下っても自分達の生き方に自信と誇りを持っているならまだしも、敵の思想に被れ
奴隷となり、彼らの技術や考え方を崇拝している輩が、小手先の批判をして何になる?

放射能汚染データの公開が遅いだの、官公庁の「愚民感」だの、被曝の影響だの、文句を
言う相手がいて、天災を人災にすり替えできる結構なことだった。確かに原発関係者や、
当時の首相を始め、政府・政権政党の体たらく振りには呆れるばかりであるが、それらの
問題は、プロメテウスとは無関係だろう。約2300年以上前の文明国・中国に、孔子に説教
した偉い老漁夫がいたという荘子の話もある。孔子は当時、69歳で円熟の境地だった?
老漁夫曰く「孔子は人生の根源的真理に背いて、遥かに外れてしまった」。それに孔子は
「人生の根源的真理を教えて欲しい」と指導を依頼した。それに対する老漁夫の答えは
「人間が心すべき八つの欠点と、物事を行う時に陥りやすい四つの欠陥を捨てたら教える」
であった。それを聴いて、孔子は、思わず顔を赤らめて、大きく溜息をついたという。
その後、重ねて孔子は質問するが、その答えも論語の言葉を引いて見当違いと諌められる。

八つの欠点とは、1)でしゃばり、2)お節介、3)おべっか、4)おもねり(良し悪しなく
喋ること)、5)ねたみ、6)害(そこない:親友を離間させる)、7)邪心(悪を善と偽り
堕落させる)、8)陰険(両方に良い顔をして両天秤にかけ、意向をずるく盗み取る)。
四つの欠陥とは、1)身の程知らずの功名心、2)悪智恵で相手を侵害し自分の利益を図る
強欲、3)過ちを認めぬへそ曲がり、4)自分の意見と合わないと悪いと貶す思い上がり。

 

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今週3/12~17のカーネーション [物語]

この前、ブログにNHKTV小説「カーネーション」を取上げたのが、1/16の「久々のカーネーション」、
丁度二ヶ月振りである。その前も約二ヶ月休んでいたから、一ヶ月チョッとの付き合い。
中断した理由もはっきりないが結局、イマジネーションを呼び起こさなかったということか。

今週のカーネーションは、妻が見たいという週末まとめ放送の便乗視聴ということになった。
話の筋は何という事はない。糸子(夏木マリ)も年をとった<物語で72歳>。その糸子の
腕を見込んで、昔糸子が助けたことのある生地問屋の跡継ぎ・河瀬譲(川岡大次郎)と
老舗着物屋15代目・吉岡栄之助(茂山逸平)そして一流商社社員・高山守(藤間宇宙)の
三人が、糸子のブランドを立ち上げたいという話で始まる。

糸子は、若者たちの気持に感謝しているが、職人気質を理由にブランド立上げを断る。
しかし本音は、寄る年波で体力・気力に不安があるし、楽をしたいという事もあった?
案の定、ブランド等の件で疲れが出て、階段から落ちて骨折した。東京で成功している
娘達(長女・優子、次女・直子)がお見舞いに来る。そこで、糸子は娘から侮辱された?
糸子にとっては娘達の思い遣りが、我慢のならない年寄り扱いに聞こえたのだ。そこで、
娘達の制止も聴かず、若者たちとのブランド立上げを決行するという話だった。

話の展開は平凡。グレて糸子の家に転がり込んでいた里香(小島籐子:優子の次女)15歳の
挿話も月並みだったが、糸子の年齢が72歳という自分と同年代(一歳違い?)という事が
最後まで、一応、見通せた原因だろう。次ぎの様な幾つかの共感を呼び起こしてくれた。
1.階段から落ちる前だったか後だったか、糸子が夜寝しなに愚痴る場面があった。
  糸子の様に勝負師で、何時も勝組で、怖いもの知らずでも、老いは厳しいものなのだ。
2.糸子がブランド立上げの為に老いた体に鞭打って働いている姿は、孫の里香にとって
  醜い老残の身としか見えなかった。しかし糸子は、競技を競っている運動選手に自分を
  なぞらえて、仕事に集中している今の充実した自分の気持を伝えていた。
3.里香は、祖母さんが奮闘している姿に己を取り戻したのか?東京に帰っていった。
  その夜、淋しさをしみじみと噛締めながら、「好きやから、淋しさを感じるのだ」
  「あっちに行った人も、東京にいった人も、好きな人が多すぎて困る」と自分に
  言い聞かせていた。心の糧になるものは、何も失うものは無いのである。

勝負が好きで勝ち続ける事も中々できない浪漫的物語になるだろうが、敗北や老残の身を
託ちながら、心の糧と共に、無心に世の中と取組む物語の美しさを感じた。如何なものか
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金権野球記事? [閑話]

今朝刊の一面トップ記事は、プロ野球界の新人獲得に伴う金品授受問題に関する6段抜の
記事だった。全国紙でも、編集者、地域差(夕刊の有無その他)など、様々な条件の違いに
よって、記事の枠組が異なるだろう。従って、これはホンの一部の地域における個性的な
レイアウトだと思う。それを割り引いても、私などには理解しがたいトップ記事だった。
トップ記事に加えて、ご丁寧に2面と34面にも関連記事を掲載してくれていた。

新聞記事の概要、そして最後の〆は、「続きを読む」にまとめておいた。

精神論を欠いた日本の欧米化は、利己主義に近い自由主義に走り勝ちであり、その勢いを
借りて、この所ドラフト制度の評判も悪かった。しかし政治の世界でも、規制緩和の歓迎
ムードが一転、規制緩和を悪の権化のように批判するムードに変化した経緯がある。
この記事も何か、球界の規制緩和ムードを引締めようという魂胆でもあるのだろうか?
それとも、金権野球の総本山である巨人軍、あるいは読売新聞を叩くことが目的か?
あるいは、日本の大新聞も、三流週刊誌並みの、売れれば良いという餓鬼道に脱したか?

私は、金権野球批判を朝刊トップ記事として扱った事に関して次ぎの様な感想を持った。
a.昨日の温家宝の記者会見における政治体制改革、逆に言えば「所得分配の不公平や汚職
  の拡大」への問題解決と関連付けて読む時、中国の政治体制改革の困難を思った。
  何故なら中国と日本とは、なかなか欧米的二元論で割り切れない心の影があるから。

b.金権野球批判記事は、欧米の一流新聞では朝刊トップ記事にならないのでは?元々
  こんな曖昧な野球運営はしない?ルール違反でも、一般犯罪の域を出ぬ扱いになる。
  何故、日本ではルール違反か否かの判別も明らかでないのに、一地方とはいえ一面の
  トップ記事にしたのだろうか?スクープや上述の理由も大いに考えられる。その上で
  私は、編集者の無意識が、そうする事を欲したと考えるのである。
  近代的自我に目覚めた編集者は、欧米的二元論の世界で生きており、球界の運営ルール
  に対する関係者の「緩すぎる対応」に我慢がならなかったのではないか?これぞ正義感
  という奴である。球界だけの問題ではないと無意識に思ったのではないか?

欧米的二元論の欧米新聞が金権野球批判記事を朝刊トップ記事にしないのは、彼らの理性が
最後まで欧米的二元論で、この手の記事を朝刊トップ記事に値しないと割切るからである。
欧米は無意識を抑制するが、東洋では無意識を抑制しきれない?



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西洋的認識の問題 [閑話]

今日は朝方曇だったが散歩に出る頃には晴れていた。日々、春色が増してくるのを感じる。
中国の第11期全国人民代表大会(全人代=国会)第5回会議が昨日閉幕したが、首相として
最後になる温家宝の全人代後の記者会見談話が、今朝刊の国際面に大きく載っていた。
最も力の入った発言は、政治体制改革に関する問答だったという。新聞の記述に依ると
「政治体制改革が成功しなければ経済体制改革は徹底できない。これまでの成果も失われ、
 文革(文化大革命)の悲劇が繰返される恐れがある」、というショッキング表現であった。
文革の悲劇とはどういう意味か?温家宝の発言から感じ取った私の意見を述べておきたい。

文革をどう捉えるかは、様々な目的や考え方によって多様な捉え方があるが、私の考えは
「文革」を、当時の中国共産党の修正主義派と毛沢東派との権力闘争の面だけとしない。
「文革」は、経済的発展推進の国家権力に対する不平不満が爆発した革命だったのでは?
当時(1960年代)の多くの中国人たちにとり経済的発展は、経済格差の問題というよりも
自分達が従来信じていた「生きる事の意味」の危機が、問題ではなかっただろうか?
1966-76の10年間吹き荒れた文革の嵐が、被害者1億人、死者1000万人?(公式資料無)
という犠牲者の数字からも、経済格差等の様なケチなねたみが原因ではなかったのでは?

温家宝が「文革」まで引合いに出して注意を促したのは、現状の政治的経済的改革は、
正しい方向性であり、一生懸命推進する事を、次期政権に強く訴える為だった?
新聞に、温家宝が「中国は文革の教訓を活かした路線を確立した」と書いていた。これは
温家宝は、政治体制改革(党と国の幹部制度の改革)により「文革」的危機は避けられる
と考えている証拠であろう。話はそれでメデタシ、メデタシ? はて?そうだろうか?

温家宝の記者会見の談話は、上述の私の推論によれば、そういう結論にはならない。
現状の中国政府のやり方も、文革以前の修正主義者と同様、中国の伝統・文化に根ざした
現代における「生きる事の意味」を醸成せず、経済的発展ばかり追いかけている、となる。
政治体制改革が成功すれば確かに「文革」的危機は避けられるかも? しかしこの手の
“・・たら・・れば”は実現した試しがない。日本においてさえ今だに不十分(小沢問題等)。
ましてや中国は日本の比では無かろう。現状日本ですら「維新」等と吠える輩がいる。
民主党政権交代以来の流れは、似非西欧文明主義者による革命に繋がる危険性がある。
「生きる事の意味」を見失った人々は、日本の小沢問題でも明らかだが、政治倫理や
経済格差に、問題を転嫁するのである。西洋文明に毒され、矛盾を許せなくなるが、
許せないと言いながら人は生きていく。矛盾と共にある時「生きる事の意味」が見える。



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春日和 [和歌・俳句]

今日は久しぶりの快晴だった。雲は北西の地平線に近い所に隠れる様に少し浮かぶだけ。
午前中は風もなく、暖かな日差しにうっとりしてしまった。とは言え、いまだ早春である。
春霞にけぶる陽春とは異なり、凛とした気迫の様なものを感じる。感謝!感謝!である。
啓蟄と春分に挟まれた微妙なこの時期を、昔の人はどんな思いで過ごしたのだろうか?
ふとそんな事が頭をよぎった。

芭蕉の俳句に次のような句がある。
◎ 藻にすだく 白魚やとらば消えぬべき  桃青 延宝9年(1691) 芭蕉38歳
歌意:藻に群がり集まる白魚は、清らかに透きとおって、はかなく美しい。しかしそれを
   手にすくい取ろうとしたら、たちまち消え失せてしまうであろう。
この句は、美しいものを、我がものに独り占めしようとする俗な心を戒めている?
私は、この句の白魚に、今日という非常に微妙な春の季節感との共通点を見た気がする。
芭蕉のこの句には、類似の作品が多くあるようだ。例えば、古今集・巻第4 秋歌上
◎ 折りてみば 落ちぞしぬべき 秋萩の 枝もたわわに 置ける白露 (読人知らず)
歌意:秋萩の枝に、たわむほど美しい白露が置かれているが、枝を折ろうとすれば白露は
   アッという間に落ちてしまうに違いない(だから、そのまま愛でるのですよ)

古今集の和歌は、秋の歌であるが、季節を通しての日本人の美意識があると思う。
日本は紙と木の文化であり、西欧は鉄と石の文化、というたとえ話があるが、日本人には
上述した様な日本の美意識が、古代(奈良・平安時代)以前の遠い昔から、強くあった。
鈴木大拙は、芭蕉の句と、テニスンの分析的説明的な花の詩を比べて東洋と西洋の違いを
論じている(『禅と精神分析』)。芭蕉の句とは、
◎ よく見れば なずな花咲くかきねかな 芭蕉 貞享3年(1686) 芭蕉43歳
路傍の雑草の花に着目する時、芭蕉と咲いたなずなとは一体となって、命を感じ取る。
それに対して、テニスンの詩は、花と観察者は切断され、従って命を共有できない。
まるで、白魚をすくい取り、萩の枝を折る行為そのものの様にみえる。

西洋が蓄積した文化は、科学を媒介としてきたが、それは、本来基督教を抜きにしたら
科学による間接的な解釈となって、命を汲み取る認識にはたどり着かないのである。
日本(や東洋)では、認識の間接性の問題に古くから気づいていた。そこで上述の和歌や
俳句の事例、鈴木大拙の事例の様に「直接体験」の重要性を、日本人の美意識という中で
無意識の領域を活用し、追求・指導してきたのである。如何なものか
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意識/無意識と政治 [閑話]

東洋?や日本人は西欧の様に、無意識を毛嫌いせずに、無意識と深く付き合ってきた。
しかし明治以後は、欧化政策による表層だけの近代化を成したに過ぎないにも関わらず
徐々にインテリは西欧的自我意識に目覚めて、無意識との付き合いを良い加減にしてきた?
その傾向は戦後に至り、一般庶民にも波及して行ったと思われる。しかし昨日のブログ
「お水取りと日本人の心」でも書いたが、日本人の美しい心は無意識の中で、今も健在
ではないか?とも考えられる。

そこで西欧的自我意識とは如何なるものか?C.G.ユングの本を読んで調べてみた。
C.G.ユングの本によると意識は、無意識性という暗闇から抜け出して発達してきた非常に
新しいものという。一方無意識は、人生の一大事においては、意識的決断よりは、
無意識的動機の方がしばしば優れているらしい。だが近代自我は意識の中に産み落とされ、
無意識に逆らい排除する?ところが、抑圧された無意識は、自我と入替わる事に、多くを
必要とせず、無意識に支配されるのは健康人のみではなく、集団・共同体、国民全体さえ
無意識の嵐に見舞われるという。

私は従来のブログで「現実を直視する」、「リアリティの喪失」等という言葉を多用したが
現代政治家の無意識に関する無頓着、無神経に対して批判していた事に気付いたのである。
ユングの説通り欧米人は歴史的に早くから自我の確立を優先し、無意識を抑圧し、逆らい、
排除してきた。しかし日本人(東洋?)は、西欧人と異なり、自我と無意識との友好関係を
保つという歴史を担ってきた。抑圧され荒れ狂う嵐の無意識ではなく、人生の一大事の時に
優れた方向に導いてくれる無意識との友好関係である。ユングも、意識と無意識を金槌と
金床とに譬え、その間で鍛えられる鉄を自我に譬えて、それでこそ立派な自我、そして人間
として大成する事を示している。洋の東西の無意識との付合い方に優劣を云々できないが
日本は欧米の真似ではない、伝統・文化に根ざした生き方をしなければならないのでは?

現代日本が、ギリシャの様に財政破綻に陥るとすれば、政治家が国民の無意識を信頼せず
自己の保身の為、即ち票稼ぎの為に、バラマキ政策をドンドンと進めるからである。今回の
消費税増税も、民主党はバラマキ政治から、立派な政治へと変身する事を印象付けるための
パフォーマンスに過ぎないのではないか?この様に騙し続けていると、日本人の無意識は
やがて戦前の様に、荒れ狂う無意識の嵐となって、全てを焼き尽くす事になるだろう。
本当に国の為に消費税増税をしたいならば、堂々と国民の審判を受けてから実施すれば
良いのではなかろうか?民主党は即刻、国民の審判を受けるべきでは?如何なものか
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お水取りと日本人の心 [希望]

今日は、奈良・東大寺二月堂のお水取りの日である。「お水取り」というのは、
今日深夜(13日の午前1時半頃)、若狭井(わかさい)という井戸からご本尊の観音さまに
お供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式が行われる。
この行を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、大きな松明(たいまつ)に
火がともされる。このため「修二会」は「お水取り」・「お松明」とも呼ばれる様になった。

「お水取り」は神聖な宗教儀式である「修二会(しゅにえ)」の付属的なものだったが、
庶民は、水と火の神聖な儀式によって、修二会の意味を直感的に捉えたのではなかろうか?
そこで修二会の宗教的な意味は何なのだろうか?(詳しくは東大寺ホームページ参照
 http://www.todaiji.or.jp/contents/function/02-03syunie3.html

修二会は、天平勝宝4年(752)、東大寺開山良弁(ろうべん)僧正の高弟、実忠和尚が
創始されたという。その縁起というのは中々興味深いが、現代人には難解というか、想像に
絶するというか、この辺りが現代人と古代人との断絶する領域ではなかろうか?私は、
能もなく「夢のお告げ」的な解釈をしたが、兎も角修二会は、実忠が天上界の諸天衆から
苦心惨憺して、教えてもらった十一面悔過(けか)という行を修する法会であるという。

さて、十一面悔過とはどういう行か?本尊・十一面観世音菩薩に対して、
日常に犯した過ちを懺悔(さんげ)する行である。仏教では、人間の心を蝕む根本的な
三つの煩悩を毒に喩えて三毒と呼ぶ。すなわち、貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・
愚癡(教えを知らないこと)の三つで、略して「貪瞋癡(とんじんち)」ともいう。
古代人は三毒を原因として、心身から発する言葉や思いを通してさまざまな罪過を犯し、
罪過の蓄積で災禍を生むと考えていた。だから悔過即ち、懺悔をする事によって、
災禍の無い世界の実現と同時に、幸福をも呼び込もうとしたのである。

私は、お水取りの儀式を通して、古代人(奈良時代)の心の美しさをしみじみと感じる。
彼らは、人災はもとより天災まで、自らの心の内に原因を求め、己の不徳を恥じたのだ。
お水取りの儀式は、そういう彼らの心に、罪過を祓い清める行として、素直に感じ取れた
のだと思う。そしてまた修二会は、創始以来、1260年の間「不退の行法」として、一度も
欠かさず続いているとの事である。その事を考えると、古代と現代では個別的には断絶も
あろうが、日本人の「心」は今もなお、その美しさを保ち続けているのではないか?
今の世の中、貪瞋癡が目立つが、多くの人々は懺悔している? 如何なものか
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GDP比較とグローバル化 [社会]

最近、国際比較にGDP比を使用する例を良く目にする。私自身、官僚経費に関して
2012.02.29のブログ「着眼大局、着手小局」で、OECD比較のデータを参考に掲げた。
月刊「Will」四月号の「TPPで崩壊する日本の医療制度(1)」という山岡淳一郎の記事でも
OECDの加盟34カ国における対GDP比率によって、医療費の国際比較が示されていた。
それに依ると、最上位の米:17.4%からオランダ:12%、仏:11.8%、独:11.6%と続き
日本は8.5%で、24位だという。
これら結果を大雑把に要約すると、日本は先進諸外国に比較して非常に効率よく運営され
税金負担も少なく、世界に類を見ぬ平和や安全・健康等に恵まれた国だという事になる。
ただ、残念ながら日本人は歴史上希に見る、この世の天国に住んでいる実感がないのだ。

客観的なデータから考えれば、現代日本は恵まれ過ぎているのかも知れない。だから
増税も、TPPも受入れていかなければならないのかも知れない。現在の日本人は
「茹で蛙」の様な、危険を予知できない状況というよりは、国内だけを基準にして
世界規模の社会や子孫を思いやる事のできない、狭い了見に陥っているのだろうか?
もしも、その様な自分勝手な自己中心主義になっているとすれば、何が原因だろうか?
何故なら、この種の自己中心性は、幼稚な子どもや見かけは大人でも成長していない
特別の人間ではなく、一般人にも蔓延しているからである。勿論、世界的規模である。
日本が小さな国や地域ではなく、1億を超える人口を抱える国家中で、統計上では最も
優れた運営を誇る国家だとすれば、世界が学びたい素晴らしい精神文化があるはずだ。

そこで思い出した事がある。「臆断(狭い了見での思い切った決断)」という言葉である。
先日のブログで紹介した「ショウジョウバエのオスの生殖細胞にX線を当てて奇形児が
生まれることを証明した実験」も、その手の「臆断」を引き起こした事例である。
そういった「臆断」を起すのは、科学知識を「金の牛」、偶像化するからである。自然に
ついての知識は、当初、神と人間との関係で捉えられていたが、18世紀以降、その関係が
風化したために、科学知識が一人歩きし、「臆断」先行で様々な問題がこんがらがる?

日本人は、何よりも自己の感覚・知覚を大切にする。即ち客観化・普遍化ではなく、
主体の体験を踏まえた認識の共有に重心を置く。従って物事が上滑りではなく、ジックリ
構築されていくので、確実に成長していけるのである。ただ最近の日本の政治家は、
その様な伝統文化を忘れた上滑り人間が多い。上滑りではない人に増税やTPPをジックリと
検討してもらい、是非を国会で堂々と議論してもらいたいものである。如何なものか
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消費税増税に正義はあるか? [社会]

古い話を持出して恐縮だが、民主党、社民、国民新は、連立時に3党合意文書を作成した。
政権交代直後の2009年9月上旬の事だ。その中に「消費税率の据え置き」という項目が
10項から成る項目の第2番目に書かれている。今朝の新聞で国民新党代表の亀井静香が、
党議員総会と記者会見で、「民主党は地獄に堕ちるしかない」と、語ったそうである。

社民が離脱した後の3党合意に意義があるのか?という疑問はあるが、現実問題として
民主党のホームページには3党合意の経緯、合意文書の内容が現在も掲げられている。連立
政権内に残っている国民新党も尊重しているのだから、現在も有意義と見做すべきだろう。
それを無視して、消費税増税のための法改正を、野田内閣は何故言出したのだろうか?
しかも今月中に法案を提出するという。野田内閣の成立は2011.09月、まだ半年である。
私の様な一般人から見ると、民主党と野田内閣は気が狂っているとしか思えないのである。

確かに民主党が政権を盗ってから二年半、大震災も起こり状況が変ったと言いたいだろう。
この様な国難の時には超法規的措置も止むを得ない等と、国士気取りで思い込んでいる?
しかし今のご時世は、民主党や橋下の様な政治家が、明治維新の国士を気取って操れる程
柔な国ではないと思う。日本は国の借金を上回る家計の金融資産がある。そして日本は、
世界最大の対外債権国であり、対外純資産は2011.09末、二百五十兆円に上るという。
東日本大震災が起こったにもかかわらず、円高に振れているのは日本が世界の金融市場を
支えているからである。現代日本は、幕末・明治の頃とは全く違う堂々たる国家なのだ。

だから「超法規的措置」等は必要ないのである。私がその様な意見を書けば、大国意識だ
といって、現代の日本を「茹で蛙」に譬える人もいるだろう。確かに大国意識で安閑と
していれば、危険な事はよく承知している。そんなに長時間を掛ける話ではない。
民主党は、ばら撒きマニフェストで政権を盗ったが、その約束を果たす事もなく、然も
現実政治では連戦連負。大震災では“放射能の恐怖を煽る”という、政治家として最も
してはならない事を仕出かした上、連立政党から「地獄に堕ちるしかない」との御託宣。

民主主義というのは手続きによって成り立つと言われるが、もっと根本的な条件がある。
無茶苦茶な嘘つきでは成立しないのだ。速やかに解散して国民の信を問うべきである。
そして国民は、“放射能の恐怖を煽る”風評被害と同様、「維新」等と大言壮語を用い
国民をたぶらかそうとしている橋下の様な政治家を選ぶべきではない? 如何なものか
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風評被害の後始末 [原発事故]

月刊「Will」四月号の山際澄夫著「民主政権よ、『人も動物も殺すな』」の中で、
“放射能の恐怖を煽る”という章を割いて、次ぎの様な事を指摘していた。
1.除染対象を当初の5ミリシーベルトから1ミリシーベルト以上にした。
  昨年10月に来日したIAEA(国際原子力機関)調査団は、除染に関する助言として
  過剰な対応を避けるよう求める報告書をまとめた(朝日新聞2011.10.15)
2.日本財団(会長:笹川陽平)が昨年9月に行った国際専門会議では、「福島の状況は
  線量も低く怖がる必要は全くない」、「福島の子ども達の甲状腺での線量は低く
  リスクがあったケースはない」等の意見が続出したという。
3.福島の避難基準「年間20ミリシーベルト以上」の根拠となったICRP・国際放射線
  防護委員会のゴンザレス副委員長は会合で「年間20ミリシーベルトは決して危険な
  数値ではない」と、発言したという。
4.放射能による発ガンリスクであるが、政府の有識者会議で
  「喫煙は、年間千~2千ミリシーベルトの被曝と同等」、
  「肥満は、200~500ミリシーベルトの被曝と同等」等としている。

食品安全基準に関しても、従来基準が超安全サイドに設定されていた為に、基準値を越える
作物が取り沙汰された。例えば昨年6月頃のお茶に関する話題だが、1)フランスの空港で
欧州連合(EU)の基準(キロ当たり500ベクレル)の2倍を超える放射性セシウム1038ベクレルが
検出されたとされる玄米茶(出荷地・御前崎市)。2)国の基準(キロ当たり500ベクレル)を
超える放射性物質が検出された静岡市藁科地区6工場生産の一番茶の製茶。

私は、過去に収集していたこの静岡のお茶に関する放射能汚染情報を再度見直して、
ハッキリと、放射能の食品安全基準は間違っていると直感した。何故なら福島原発事故の
影響が、遠く静岡に出るはずがない。これはお天道様のお恵みであり、お茶が長寿の秘薬
特に、濃茶が長寿の素という理由が垣間見えた。

多くの食品に元々放射性物質が含まれている。
食品中のカリウム40の1Kg当り放射能について言えば、例えば
干し昆布:2000Bq(ベクレル)、干し椎茸:700Bq、ポテトチップ:400Bq、生ワカメ:200Bq、
ほうれん草:200Bq、牛乳:50Bq等。 従って人体内にも放射性物質は存在している。
例えば、体重60Kgの日本人の場合、カリウム40:4000Bq(ベクレル)、炭素14:2500Bq、
ルビジウム87:500Bq等、(以上出典:原子力安全研究協会)



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