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散歩つれづれ'12.01その2 [閑話]

今日は久しぶりに朝から日中、雨だった。風も雨も冷たい中、散歩に出かけたら
幼稚園帰りの園児たちに出会った。最初の子は寒そうに(淋しそうに)傘を差している素手の
両手がかじかんでいる様に見えた。しかしその子の手は、健康そうな皮膚の色をしていた。
彼が寒そうにしている様に感じたのは、迎えが、相当年配のお婆さんで、ぶつぶつ言いながら
孫or曾孫?と没交渉で歩いていたからだろうか?人間の幸不幸は、物質より心だと思う。
その後、次々と出会う園児達は皆、手袋をせず、素手で傘を差していた(大方は両手で)。
それで私は、60年くらい前の少年時代を思い出した。
冬といえば手や足は、何時もヒビ、アカギレ、霜焼。鼻は何時も鼻水を垂らす状態だった。

私は考えた。私の少年時代(昔)と、今の子たちと何が変わり、何が変わっていないか?
◎ 先ず、変ったこと。
 栄養状態が良くなって、ヒビ、アカギレ、霜焼や、鼻水垂らし状態は改善された。
◎ 変っていないこと。
 冬の雨の日も、大方は素手で傘を差し、それを不服に思う事はない。
最初、素手で傘を差している園児達に「寒かろう」、「冷たかろう」と私が思ったのは
寒さ・冷たさに弱いヨボヨボ爺の自分と同一視する、余計で愚かなお節介だった。

昨日も書いたが、政治が国家に寄与する事など、ホンの僅かなものだと思う。
「明治維新によって日本の独立を維持できた」などと見て来た様な事をいう人も居るが、
こういう単細胞な考え方をすぐ受入れるようだと、政治家に騙され続け、国が滅ぶ?
政治家が余計なお節介をし過ぎるが故に、変な方向へ行ってしまうのである。丸で、
教育ママが、子どもの育成に口出しし過ぎるが故に、子どもがダメになるのと同様である。

共産主義革命は、ユートピアの様な理想社会ができると考えられたからやってしまった。
これも教育ママの子どもへの余計で愚かなお節介と同様だ。人間の理性は感情や本能を
制御できない。感情や本能を制御できるのは、人間の本能と理性を司る霊性のみである。
この霊性を健全なものにするには、本人の主体性を尊重し、本人が自律するしかない。
霊性が乏しく、理性と本能の相克の中で生きる複雑怪奇な人間が大勢居る社会は部分的に
論理的・合理的に運営できても、総合的に運営できるものではない。人間社会を良くして
いくためには、国民一人一人が政治家の拙い言語能力を見抜く力をつけねばならない。
でないと終戦後70年近く続く「福祉政策」に飼い馴らされ、過保護の親に育てられた人と
同様、日本(と似ている世界中)の人々が、ダメ国民になってしまう。 如何なものか
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