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弱者は何を語る? [物語]

最近、連続テレビ小説「カーネーション」も興味が薄れてきた。しかし今日の放送分は面白かった。
と言っても最後の方だけだったが。今朝は、たまたまBSを付けたら、「カーネーション」の後半、
安岡玉枝(濱田マリ)が、恐ろしい顔の幽霊の様に雨の中に突っ立っていた場面だった。
余りに衝撃的な顔つきで、度肝を抜かれ、ドラマに引き摺り込まれてしまった。 
(玉枝が来た事に気付き)出てきた糸子(尾野真千子)に、すごい剣幕でまくし立てる。

「世の中ちゅうのはな、皆があんたみたいに強いんちゃうんや。・・・・中略・・・・
 皆もっと弱いんや。・・・・中略・・・・うまい事いかんで悲しいて、惨めなんも分かってる。
 そやけど生きていかないかんさかい どないかこないかやってんねん!
 あんたにそんな気持ちわかるか?・・・・中略・・・・あんたはな、なーんもわかってへんわ!
 今の勘助にあんたの図太さは毒や。頼むさかい-もう、うちには来んといて!」

この玉枝の啖呵は、ブログ「2011-11-11カーネーション:糸子の啖呵」の啖呵と全く異質だ。
糸子の啖呵は、生きる世界は別でも図太く生きる人間同士の切磋琢磨のための啖呵であり
強者の啖呵である。それに対して、玉枝は、女の細腕で、二人の息子を苦労して育てたが
精神を病んで戦争から戻ってきた気弱な弱者・勘助(尾上寛之)を労わる優しい母親だ。
糸子から「へたれ、へたれ」と気安く言われても、ジッと耐える忍耐強い女性である。
その玉枝の堪忍袋の緒も切れたというものである。濱田マリの真迫の演技を絶賛したい。

私は「カーネーション」が、何故こんなに面白くないのか?最近、ズッと疑問に思っていた。
しかし、今日の玉枝の啖呵を聴いて、「なるほど!」と、合点がいったのである。
私の好む物語は、「弱者の物語」なのだという事を、改めて再認識した。
「カーネーション」も、最初、面白かったのは父・善作(小林薫)という強者に立向う弱者・糸子
の物語だったからである。しかし何時頃からか、強者の物語になってしまった。
様々な障害や、不幸な環境であっても、時代を先取りした強者の立身出世物語なのだ。

それは、「てっぱん」の初音(富司純子)、あかり(瀧本美織)と比較すれば明らかだ。
初音は、ある意味で人生の敗北者であり、あかりも、高校三年の時に自分が何者であるか?
見失ってしまう運命的な逆境を背負う弱者であった。初音もあかりも平凡な人生である。
しかし、初音とあかりが織り成す物語は、弱者が、自ら周りの人々を助け、助けられながら
平凡な人生の質的な転換、そして周囲の人々や自分たちの精神的成熟を物語るのだった。
そこには、「どないかこないかやっている人々」を勇気付ける何か?がある。如何なものか
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