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個人主義と犯罪捜査 [閑話]

近代的個人主義は、合理主義・自由主義との三点セットという先入観によって汚染されて
いるのではなかろうか?その点を、犯罪捜査の歴史から明らかにしていきたいと思う。
古い歴史のある犯罪捜査では、昔は、思い込み捜査で、ずいぶん多くの冤罪を生んだ?
自白を強要する為に、拷問という手段が用いられたが、民主化と共に廃止されている。
しかし現代でも心理的な駆け引きがなされ、サスペンス劇では、犯人の自白を引き出す
名人刑事が主人公のドラマもある。しかし捜査過程の尋問中、自白を強要された、或は
科学的証拠が間違っていたとして、最近、冤罪が立証されるケースが幾つも出てきた。
従って取調べのオープン化と、益々、動かぬ物的証拠が求められるようになった。しかし
証拠だけで自白を引出せるケースは多くない?自白なしの立証は現行犯逮捕だけだろう。
犯罪捜査において、合理主義の偏重に陥ると自白が得られず、犯罪の立証が困難になる?
「合理性を追求しすぎると不合理になる」という好事例ではなかろうか?

しかし、問題はそれだけではない。物的証拠による立証という考え方は、科学万能、
人間の能力の過信ではなかろうか?物的証拠で立証できたとしても、それでは犯罪と
犯罪者は切離されたままとなり、犯罪者を更生させるという本来の意義がなくなる。
尋問における犯罪者と刑事とのやり取りは、犯罪者更生への一里塚であるはずである。
だから必ずや正しい供述が必要である。互いに限られた能力しかない憐れな人間だ。
犯罪者も刑事も利害が正反対な立場で、当面、意見が一致しないのは当り前だろう。
そういう問題を粘り強く解決していかない限り、世の中は良くなっていかないだろう。

現代社会は合理主義・自由主義の行き過ぎに汚染されて、様々な矛盾が噴出している。
その原因の一つに、個人のあり方としての個人主義に関する間違った解釈がある。
個人主義は、自由主義から利己主義になる思想だと言う。確かに近代社会は、大家族の
不合理な面を捉えて核家族に解体し、家族さえ不自由だとして、利己主義化している。
しかし私が日本歴史から学んだ個人主義は、先入観を持たず、何かに囚われない平常心・
不動心で生きる「人のあり方」である。また自由主義の発端は聖書解釈の自由という事。
その根源には人間の能力の制約がある。自由主義もまた人間の制約を謙虚に受止めて、
先入観を打ち壊す教えであったはずである。利己主義と混同され先入観に汚染された
自由主義が、個人主義の解釈を誤らせる方向に導いているのではないか。以上の様に
現代社会の問題の中心は、高度成長などで見過ごされていた「人間の制約」への対処方法
であろう。個人の先入観による過ちが積重なると問題となり、大きなうねりを伴うと
大事件、大紛争や戦争にもなる? 火事はボヤの内に消し止めねば! 如何なものか
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