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京都散歩'11.09最終 [歴史]

DSC08849応仁.JPG先日の京都散歩で、御霊(みたま)神社(上京区)にお参りした。主祭神は崇道天皇(早良親王)である。その神社鳥居の横に、「応仁の乱勃発地」の石碑(写真)があった。昔の境内は御霊の森と呼ばれる広大な境内があり、文正二年(1467)、室町幕府管領・畠山政長ら(東軍)が陣を敷いて、山名方(西軍)と一戦を交えたのが応仁の乱の始まりらしい。戦いは年号が応仁に切替る3月以前の正月だったので由緒書には文正二年とある。室町幕府の跡目争いなどの内紛が、この戦い以降、全国規模の内乱に発展したのである。

主祭神の崇道天皇に関しては、ブログ「閑話2010.10.08」でも取上げたがこの時、参拝したのは、左京区・高野の崇道神社だった。早良親王(750?-785)は、桓武天皇と同腹の皇子であるにも拘らず、藤原種継暗殺事件(延暦4年<785>)の嫌疑をかけられ憤死した。早良親王の怨霊は凄まじく、桓武天皇の妃ら数人の病死や疫病の流行、洪水等が相次ぎ、延暦19年(800年)、崇道天皇と追称された。御霊神社は、平安京遷都の延暦13年(794)に桓武天皇の勅願で創祀された。ちなみに左京区・高野の崇道神社は創祀年代は不明。貞観年間(859-877)ではないか?と神社の栞には書いていた。他にも早良親王の怨霊を鎮める神社が奈良等にあるらしい。

藤原種継暗殺事件を細かく見ると、桓武天皇は、781年に光仁天皇から代替わりして、三年後、暗殺事件の前年(784)に、平城京から長岡京に遷都している。藤原種継は造長岡宮使だった。そのためか否か?延暦13年(794)、たった10年で平安京遷都を敢行している。当初の平安京の設計図は、実際にできた平安京よりもズッと遠大な計画であったという。10年で遷都を繰返したにしては、平安京の計画が立派過ぎないか?長岡京遷都には、東大寺や大安寺などの南都(平城京)寺院の影響力排除の狙いがあったというが、二段構えの遷都計画で、南都寺院の影響力排除を図ったとすれば、桓武天皇はしたたかなお人だった?早良親王も、東大寺の開山・良弁の信任が厚く、なかなかの人物らしかったから、「両雄並び立たず」ということか!
201109081530伏見桃山城.JPG
先日の京都散歩の最後は伏見桃山城(写真)。遠い昔、父と一緒に行った記憶がある。当時、再建したばかりだったと思う。伏見城-Wikipediaによると、1964年(昭和39年)に「伏見桃山城キャッスルランド」が伏見城花畑跡に建設され、模擬天守等が鉄筋コンクリート構造で造られた、とあるから、恐らくその頃だろう。驚いたが閉園されていた。近鉄の経営不振でリストラに会ったらしい。お陰で、散歩による静かなアプローチと観覧が出来、良かった。昔も今も、“栄枯盛衰常ならず” 如何なものか
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